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縄文アマミキヨ〈1〉太陽の道

「追跡アマミキヨ」を終了してから約4ヶ月経った
ゴールデンウィーク前、玉城(南城市)を訪れた。
玉城城(ぐすく)の一の郭に立ち、ブログの原点と
なった「太陽の道」を改めて見つめたいと考えた。

「追跡アマミキヨ 」の初回は「久高島に昇る朝日」、
次は「太陽の道」と「貝の道」として綴っている。

当時は、ある調査報告書の一文に惹かれていた。
〜玉城城一の郭の門(スーフカ)正面にある、
アマツヅ御嶽は、夏至の時期に日の出とともに
太陽の光を受けるよう設計されている〜

ところがその後、玉城城の一の郭に何度も立つうち、
私の関心は、城内から城外へと次第に移り変わった。

玉城城は約600年前、英祖王統期の築城とされるが、
その城門を誰が「太陽の道」を活かして設計したのか?
という構造にまつわる興味ではなく、
誰が最初にこの高台で「太陽の道」を発見したのか?
という古代の人々の視線のほうへ。
縄文アマミキヨ〈1〉太陽の道_a0300530_10521605.jpeg










第一章の頃、語り部が昔からこの高台で視たという
超古代の風景について何度も聞いていた。例えば、
原人のような小さな人を視たとか、ステッキを持った
鼻が高くて外国人風の男性を視たなどという話を。

「縄文の頃から…そして各地から…」と、私は絶句した。
しかし、視えない私には確認のしようのないことで、
結局、長い間、私はそのことをブログに書けなかった。

とはいえ、忘れたわけではない。逆にだんだんと、
この高台に流れた時間そのものを遡りたくなった。
誰が最初にこの玉城で「太陽の道」を発見したのか?
縄文アマミキヨ〈1〉太陽の道_a0300530_10521918.jpeg










その意味で、
「追跡アマミキヨ」第二章にあたる「縄文アマミキヨ 」
は、第一章を遡上して最後に書く序章のようなものだ。

よく晴れた4月末日、琉球ゴルフ俱楽部のある
高台で、まず参りたかったのは東(あがり)の御嶽。
その半月前、玉城台地に点在する御嶽を管理する方
から、10年ぶりに連絡をいただいた偶然も幸いした。
ゴルフ場の御嶽には関係者の同伴なしには入れない。


その日の午前、玉城城一の郭に一人で登ってみた。
グリーンのなか、中央右あたりに東の御嶽はある
縄文アマミキヨ〈1〉太陽の道_a0300530_10522190.jpeg



語り部によれば、この高台でもっとも古い御嶽という
が、はたして東の御嶽は、東に向いているか…?




4月末日当日6:00、ユインチホテル南城から朝焼けを望む
縄文アマミキヨ〈1〉太陽の道_a0300530_10522352.jpeg















































by utoutou | 2026-05-14 16:53 | 第二章 | Trackback | Comments(4)
Commented at 2026-05-15 11:56
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2026-05-16 06:38
> 匿名希望さん
南城市のご出身なのですね。「一体南城市でなにがあったのでしょうか?(笑)」のくだり、まったく同感です。「玉城でいったい何があったというんだろうか?」と、私も長いこと自分に突っ込んできましたから。おそらくAIにもまだ未知であろう領域に、いま踏み込もうとしている? とさえ思います(笑)。4月の旅でミルクの墓へも参りましたので、近々そのあたりもまた…。
Commented at 2026-06-09 16:03
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by utoutou at 2026-06-11 07:21
> ゆゆのきさん
コメントありがとうございます。玉城の神人・神女たちに「天地大神様」と呼ばれたという天王ガナシーは大和神話でいうスサノオにも例えられ、昔は「藪札の御嶽」の岩下の香炉に祀られていたそうです。そのため玉城百名は「根の国」とも呼ばれたと。いまその百名や新原地区でヴィラ建築計画の反対運動が起こっているようですが、そうした聖地の忘れられた伝承を思うと、やはりいたたまれない気になりますね。
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