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縄文アマミキヨ〈6〉若太陽(ワカティダ)の御嶽

玉城城の南西180mにある夜中之世之大井泉
(ヨナカヌユヌウッカー)には、ふたつ異称がある。
「夜中世の御嶽」と「夜中の御嶽」だ。
似ているが、意味は少し違うかもしれないと思う。

夜中世とは、語り部によれば
天と地が分かれる以前の時代を指すというのだ。
アマミキヨの居住地と伝承されるミントングスク
では開闢伝説として次のように語り継がれてきた。

〜 神がミントングスクに降らせられたるときに
初めて天と地が分かれ、夜と昼の分かれ生じたり 〜

それまでは夜も昼もない「夜中世」だったという。

沖縄に旅する前、語り部に聞いてみたことがある。
「夜と昼ができたのが天地創造。その後の世としても、
フナクンジ(船つなぎ石)が、高所にあるのは何故?」

すると、語り部は言った。
「縄文海進の時代ならば、海面は高かったはずですね」

なるほどそうか…。
では、もしそこに、フナクンジがあったとしたら?
ということで、縄文海進のピーク時(約7〜6000年前)
の景観を見ようと、AIで、玉城城とゴルフ場周辺の
 国土地理院地図・高低図にその仮説情報を重ねてみた。

そのイメージ図がこちら(↓)
島のように描き出されたゴルフ場と玉城城の周辺。
地図上に記した赤丸のいちばん上が、東の御嶽。
その斜め左下の赤丸が、玉城城一の郭、さらに
斜め左下の赤丸がヨナカヌヨヌウッカーの位置。
 右(東)の赤丸は、後のミントングスクの位置。
ミントングスクは、いわば縄文時代にはなかった
縄文アマミキヨ〈6〉若太陽(ワカティダ)の御嶽_a0300530_16341406.png
※フナクンジ(船つなぎ石)の高さは約106m(推定)







その後、沖縄・玉城への旅を終え「夜中世の御嶽
 のブログを書くと、その日のうちに語り部から電話。
「夜中の御嶽」の伝承を思い出したというのだった。

「冬至の太陽が沈むところを夜中の御嶽と呼び、
翌朝に新しい太陽=若ティダが生まれたことを祝った
のです。古代、太陽神は船に乗って来たと言われます。
船が着く所だからフナクンジ伝説が残ったわけです」

夜中の御嶽とは=若ティダ(太陽)の御嶽でもあった。

冬至の太陽が沈むと、朝には若ティダが昇ってくる。
玉城はアガリユー(東方)信仰の聖地だったようだ。


〈もしも玉城城の南西ににフナクンジがあった
   のなら〜縄文海進期のイメージ図まとめ〜〉  
夜中の御嶽と玉城城と東の御嶽が、久高島方向
(東北東、夏至の朝日)に、ほぼ一直線に並ぶ
縄文アマミキヨ〈6〉若太陽(ワカティダ)の御嶽_a0300530_11412206.png








AI画像で、玉城城から望む夏至の日の太陽の動き
を見る。日の出から日没までこのようになった
縄文アマミキヨ〈6〉若太陽(ワカティダ)の御嶽_a0300530_11414113.png








いっぽう、ゴルフ場内の「東の御嶽」側から玉城城
を望むと、冬至の日の太陽の動きは↓このように。

想定される日没地点は「夜中の御嶽」あたり。逆に
日の出地点は、創世伝説の残るミントングスクの方角。
そう言えば、ミントングスクの古称(徐福が来る前)
は、ズバリ、大東(うふあがり)と呼ばれたという
縄文アマミキヨ〈6〉若太陽(ワカティダ)の御嶽_a0300530_11414707.png




「夜中の御嶽」を「若ティダの御嶽」と呼んだのは、
いつの時代の、どのような人たちだったのだろうか?
原住の人たちか、何処かから渡来した人たちなのか?








by utoutou | 2026-06-16 12:53 | 縄文アマミキヨ | Trackback | Comments(0)
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