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六甲山と瀬織津姫 188 美奴売(みぬめ)の神

九頭龍弁財天とも思われる美奴売(みぬめ)の神
 は敏馬(みぬめ)神社(神戸市灘区)に祀られている。
亦の名は、弥都波能売神(みずはのめのかみ)。

江戸前期に、素戔嗚尊、天照皇大神、熊野座大神を
「敏馬三座」と記す文書がある。主祭神は交代した。
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阪神線の岩屋駅近く。国道2号線沿いの小丘に鎮座。
古代は敏馬浦と呼ばれ、砂州が造った良港だったという。
神功皇后伝承を持ち、式内社であるのはそのためだ。


敏馬神社略記も、『風土記』のくだりを記す(要約)。
☆美奴売(みぬめ)とは神の名であり、神功皇后の
新羅への出兵に際し、神前松原(阪急神崎川近く)
で戦勝を祈願したときに祀られたが、その神は、
「我が山の杉の木で船を造れば、勝利する」と宣った。
☆皇后が帰還した際、船が動かなくなったので
占うと、「神の御心なり」と出たので、美奴売の神
を祀り、船も献上した。神功皇后摂政元年の創建。 
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境内の摂社・水神社に祀られているのが、
美奴売の神こと弥都波能売神(みずはのめのかみ)。
右手の案内板には、次のように記されている。
〜水神社 御祭神 弥都波能売神
水を司る神で、神社創建時の主祭神と伝承される。
御祭神名より「みぬめ」の名が誕生した 〜
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その右手(海側)には、神功皇后を祀る摂社。
創建時の主祭神と創祀した皇后が並祀されている。
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水神社の後ろに隠れる小宮にイザナギとイザナミが
祀られているが、これまで迂闊にも気づかなかった。
確かに、案内板には「奥の宮」と表記があった。
記紀神話では、
ミズハノメは、イザナギとイザナミから生まれた。

謎めいた祭祀空間だが、神社由緒には、水神とは
「能勢の美奴売山(現在の三草山)の神」とだけ
記されていることが、何やら想像をかきたてる。
三草山は猪名川の源流域にあたるため、イナ…稲…
つまり、稲作と浅からぬ関係にある女神ではないかと。



三草山は、兵庫県猪名川町と、大阪府豊能郡能勢町
との境界に広がる(標高564m)。そう高くない。
↓地図に書き入れた赤丸・右上が三草山、左下が
  敏馬神社の位置。直線距離でも約40㎞離れている。 
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さて、美奴売の神の来歴について思いを巡らせ、
三草山周辺にその手がかりを求めてググっていたとき
その山の北側に鎮座する、ある神社の存在を知った。
岐尼(きね)神社(豊能郡能勢町森上)という。
※地図は能勢電鉄HPより拝借。赤丸は加工。
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岐尼神社。創建は延暦元年(782年)という式内社。
祭神の枳根命(きねのみこと)は、紀氏・大名草命
の末裔で、武内宿禰にも繋がる系譜の巫女だという。
岐尼、枳根…もしや、「きね」とは「杵」と同義なのか?
杵を持って餅をつく「月の兎」を思い起こさせた。

それにしても、巫女を祭神として祀る神社とは。
逆に、巫女の祀る神の大きさが偲ばれるのである。

そう言えば、
『摂津国風土記』逸文に次のようなくだりがある。
〜豊受大神が丹波国に遷座するまでは、摂津国
の稲倉山(場所不明)にいた 〜と。

まさか、美奴売の神とは豊受大神のことなのか…?
地名が豊能郡、「豊」の一致も気になるところだ。

そんな妄想を見透かすように、語り部から電話が。
「豊受大神が祀られる丹後の比沼麻奈為神社
(ひじまないじんじゃ、京丹後市)のすぐ近くに、
半月のかたちをした田んぼがありませんか?」

半月形の田んぼ…。
そこには、とんでもないメッセージが含まれていた。






by utoutou | 2018-09-22 08:36 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 187 九頭龍弁財天を追う旅

九頭龍大神(弁財天)はその名に一字ある通り龍神。
山中に祀られているのは、ここが海人族の住処
だったことを物語る…と、先週末に長野県阿智村の
阿智神社へ参ったときに改めて感じたものだった。

同じ村内に、阿智神社の前宮と奥宮がある。
いずれも戸隠神社(長野県戸隠)の元宮と伝わる。

新宿から高速バスで4時間弱。私は中央道日野を
午前に発ち、阿智村に最寄りのバス停に13時に着いた。
旅館に荷物を預けタクシーで阿智神社奥宮へ。
14時着。奥宮の境内を(雨ニモメゲズ)散策する。

2泊3日の旅、阿智村から北上して伊那谷を歩く。
イナは為那都比古のイナ、猪名川のイナであり、
新羅からの渡来人・猪名部一族のイナでもある。

イナ族は摂津から伊勢・三河、また近江・美濃から
伊那谷へ。地名に点々と痕跡を残しつつ龍脈を辿った。

最終的に戸隠(長野県戸隠、過去ログはこちら)へ。
一族が祀ったのは九頭龍大神(弁財天)だったかと。
その女神は大和王権の成立と並行して幽閉され、
天照大神が降臨するという天岩戸神話が作られた…。


阿智神社奥宮。祭神は天八意思兼命、天表春命。
向かって左が本殿、右の小丘の上に磐座がある。
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村内に昼神温泉と、阿智神社の前宮と奥宮がある。
旅館やタクシーで、「奥宮ですか??」と言われたが、
地図には載っている。中央上に前宮、左上に奥宮。
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地図を頼りに、温泉街からタクシーで10分ほど、
道路沿いの鳥居近くに古さびた社号碑があった。
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こちらは歌碑のようだ。
「篝薪神楽(かがりびしんがく) 吾道(あち)太神宮」
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読み下し文の説明も、並んで表示されている。
それに向かい、勝手流な解釈なのだけれども、
これで伊那路の旅の目的の半分は果たされたと思う。

八意野(やごころの)吾道大社太神宮…吾道とは阿智。
日霊之火能神(ひるめのほのかみ)…とは、弁財天?
八束之金龍(やつかのわだつみ)…とは、九頭龍?
海人族の神祀りを、そう如実に感じさせる神楽歌だ。
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伊那路への旅についてはまた後日ゆっくり書こうと思う
が、話はいったん六甲山に戻って…。九頭龍弁財天
=瀬織津姫=弥都波能売神(みずはのめのかみ)は、
敏馬(みぬめ)神社(神戸市灘区)の水神社に鎮座。

〜敏馬神社創建時の主祭神〜と説明板に記されている。
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敏馬神社は三韓から凱旋した神宮皇后の創祀という。
皇后が祀った水神は、猪名川の上流に祀られていた。
敏馬の社名ともなった「美奴売(みぬめ)の神」だ。

その神名は『摂津国風土記』に見える。以下要約。
☆神宮皇后は新羅出兵にあたり神前松原(現尼崎市)
で勝利祈願をした際、能勢の美奴売山の神を祀った。
☆帰還した船は、この敏馬の浦で動かなくなった。
☆占うと、美奴売の女神を祀れとの神託があった。

「能勢の美奴売山」とは、猪名川上流の三草山のこと。
戸隠神社のある猪名川町から12㎞ほど北に位置する。
神功の三韓遠征は4世紀後半の事績と考えているが、
当時、イナ国の中心は三草山周辺に移っていたようだ。

























by utoutou | 2018-09-22 08:35 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 186 猪名川の九頭龍弁財天

戸隠神社(兵庫県川辺郡猪名川町)へ行こうとして、
というより、猪名川の上流へと遡ろうとして、
阪急能勢駅まで行き、しかし時間が足りないことに
気づいた日、それならと、徒歩5分の能勢電鉄駅から
北極星信仰の聖地・能勢妙見宮へと行き先を変えたが、
⇩着いた妙見口駅で、 今度は妙見山へのロープウェーが、
豪雨で土砂崩れしたため不通と知った。


すべて空振りで、この日の前半を棒に振ったが、
大阪府の最北端駅だという妙見口駅まで行った
ことが、実はちょっとした気づきに繋がった。
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車窓から⇩妙見山に連なる山脈。右(南)は箕面方向。
戸隠神社の鎮座する(兵庫県)川辺郡と、能勢妙見の
ある(大阪府)豊能郡能勢町とは地続きに隣接している。
その北摂の最北の深い山々を超えると、もう丹波。
猪名川の源流でこそ、為那国の神祀りはあったと思う。
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いつか語り部が言ったことがあった。
「為那国は、現在の箕面市の狭い範囲には治らない。
おそらく、チヌの海(大阪湾)を囲み、六甲山周辺
や丹波・丹後・播磨、河内・大和も含んだと思います。
さらにその南の葛城の国も、範囲に入っていたかと。
小さい国々の連合体といったかたちだったのでしょうが」

「葛、あの名産品を作った人々のいた葛城の国栖も…?」
語り部は言った。
「国栖、九頭、国主(くず)とは先住の海人民の集落。
その国々を、弥生中期のBC1世紀ごろに束ねたのが
為那都比古かと。その名は代々継がれたようです」

語り部が為那都比古に龍神・九頭龍大神のイメージ
を視るのは、そんな時代背景をダブらせているからか。
私は聞いた。
「ところで、国栖は吉野の近くですよね。
なら、奥吉野と呼ばれた天川も為那国のうち?」
「そうだと思います」

3年半前を振り返る。
「九頭龍大神①南朝を守護した天川弁財天」を書いたが、
いまは、その前段の歴史時間を辿っているらしい。

 「為那国にも弁財天(瀬織津姫)はいたのですよね」
聞くと、語り部は言った。
 「龍神・九頭龍大神というより、オオヒルメ…
日と火と霊(ひ)の神のことですね」
「なるほど、撞賢木厳之御霊天疎向津姫
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)…」



戸隠神社(猪名川町)は、明治時代に入るまで、
少し離れた山中に九頭龍大神を祀っていたという。
極彩色の本殿は室町時代の造営。国の重要文化材。

ちょうど同じ時期、箕面に住む友人のMさんが
その戸隠神社へ行ってきたと写メを送ってくれた。
本殿には、頭に如意宝珠を戴く龍が描かれている。
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まさに九頭龍大神=九頭龍弁財天と感じられる。
その九頭龍大神について書いたシリーズは↓こちら。

九頭龍大神②弁財天は復活した
九頭龍大神③岩戸に隠れた女神
九頭龍大神④鎌卍の社紋は語る
九頭龍大神⑤弁財天と如意宝珠

九頭龍弁財天は、信州の戸隠へと龍脈を辿ったのか…。









by utoutou | 2018-09-09 16:17 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 185 龍神は北上した

大己貴命(おおなむちのみこと)の神格については、
「六甲山と瀬織津姫 130 角のある人の世」で
書いたことも忘れて路頭に迷い、筆が止まっていた。


上古、この箕面を中心地としたらしい為那国に、
 まず先着した渡来の民がアマミキヨ族だったなら、
↓ 為那都比古神社の旧社地300mの北にある御嶽
・医王岩で崇めた神ははたして大己貴命だったろうか? 
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という疑いが、確認する術もなくわだかまっていた。
アナゴノシー・アナゴノファーと呼ばれた久高島の
始祖夫婦(兄妹)が、「天地の大神さま(スサノオ)」
の末裔だろうという語り部の話を前回書いたのだったが、
そこに大己貴命はどう関係し、またどういう神格なのか?

何日かモヤモヤしていたが、再読して少し覚醒した。
ヤマトで語られる大己貴命は、琉球古神道で語られる
君真物(きんまむん)。琉球王朝の祭神でもあった。


うっかり忘れていたその神名は、記事中で
 引用した五穀発祥伝説(久高島由来記)にあった。
〜アナゴノシー・アナゴノファーの夫婦(兄妹)は、
東海岸の ↓ 伊敷浜で波間に漂う白い壺を見た。禊の後、
それを拾うと、中に7種の穀物の種が入っていた。
中森嶽に蒔いたところ、うまく育ち、君真物も出現した 〜
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↓中森嶽は、中の御嶽(中森の御嶽)とも呼ばれる。
久高島の龍宮と密かに伝わる洞穴の最奥部にあたる。
よって、そこに坐す主神・君真物とは龍神なのである。
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語り部は言った。
「大己貴神と聞いて視えるのは、やはり龍神です。
三輪山の巳さん(龍神)・大物主神とも同神です」
※大物主神と君真物については、こちらにも記事が。


大物主と君真物、確かにどちらも物(むん)を含む。
沖縄で物とは霊力、真物(まーむん)とは龍神の霊力。
「物」の一字はまた、物部の「物」にも通じる。
以前、語り部が視た「籠目に編んだ箕(農具)」は、
この地に渡来したアマミキヨ族が、磐船で飛来した
ニギハヤヒ率いる物部だと、暗示していたのだろう。

確かに、為那都比古命と同音を含む猪名部氏は、
物部系とも、新羅からの帰化人とも言われている。
前者が後者と通婚しても、母系なら祖神は変わらない。
医王岩の御嶽で、一族が大己貴神を祀るのはごく自然。
やはり、龍神を崇める為那の一族は列島を北上したか…。

物部の祖神はニギハヤヒだろうと思いがちだが、
因幡国の伊福部氏など、ニギハヤヒ系図の最上位に
大己貴命を記した所伝を遺す一族も存在するという。


「ところで…」と、語り部は言った。
「猪名川の源流に、宇迦之御魂(うかのみたま)が
祀られていた痕跡は、ありませんか?」
「7つの首の蛇ですね、琉球から北上したセーナナー
「はい、琉球の球とはその御魂だったと思います」
「九頭龍大神なら源流の猪名川町に祀られていました」

為那都比古神社に参るため日帰りで箕面に行った日、
まず、兵庫県猪名川町の戸隠神社へ向かった。
あまりの遠さに諦め、Uターンして来たのだったが。
いまは猪名川町の国指定重要文化財となっている。
戸隠神社は、古来、九頭龍大神と呼ばれていた。






by utoutou | 2018-08-31 14:32 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 184 大己貴命(おおなむちのみこと)

箕面山(為奈山)山麓に明治時代から鎮座する
為那都比古神社(箕面市石丸)には東西に鳥居がある。

東の鳥居に入る際に目を転じると、長く続く玉垣。
鳥居横の「式内社」と冠した社号碑とあいまって、
広大な境内は、古来の格式と遷移までの歴史を偲ばせる。
さすが神功皇后の如意珠伝説が残る土地柄だと思いつつ、
あのときはまだ伝説の意味までは考えが及ばなかったが。
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境内に続く鎮守の森がどれほど広大であったかは、
『式内社調査報告第5巻』('77年刊行)が記している。
〜【境内地】四百五十一坪。〜(※1490㎡←筆者注)
これで驚いてはいられない。続いての記述では…。

〜明治初年の大阪府豊島郡萱野村白島萱野郷式内社
為那都比古神社「境内実測図」二枚あり。(中略)
計三千六百二十三坪五合四勺とある。〜
換算すると、約11977㎡。現在の十倍近くか。
「イナ国の中央祭祀場だった」とする説もうなずける。


中門から拝殿を望む。境内右に由緒を刻した石碑が。
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逆に、拝殿前から中門を見ると、このような景観。
猛暑日の午後3時、参拝客は誰ひとり現れなかった。
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さて、こちらが、
為那都比古神社に合祀された村社一覧を刻した社記碑。
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そこには、こんな記述がある。
〜国の指導により明治四十年に旧萱野村内に御鎮座の
 次の神社が、この為那都比古神社に合祀されました 〜
 列記された十の神社にヒコとヒメの神社も含まれる。

☆大宮神社(為那都比売大神)白島(※地名)
☆為那神社(猪名津彦大神)稲(※地名)

うち、ヒメを祀る大宮神社が「大婦天王社」と呼ばれた
旧社であり、その300m北に立つ巨岩・医王岩が古来
の御嶽であったことは既に書いたが、祀られていた神は、
『摂津名所図会』によれば、「大己貴命と少彦名神」。
「この二神は医道の祖也」とも。ただし、その祭祀は、
大婦天王社が本尊・薬師如来の大宮寺だった頃の名残り。
本来の御嶽には、もっと原初的な神が祀られていたのでは?
※写真は「ふらっと 箕面さんぽ」より拝借
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 上古の時代、この地の首長で祭主だったと思われる
 為那津比売が大己貴命と少彦名神を崇めていたとして
   も、あくまでも一族の祖神の祀りだったはずである。 

   では、大己貴命とは琉球から渡来した神なのか。 
  そのヒントを、実は語り部は以前から呟いていた。

曰く、
 「猪名川の両岸に広がってこの地に住んだ一族は、
  久高島のアナゴノシー・アナゴノファーと関係がある」
そしてまた、こうも言った。
「吉備に祀られる金山彦神(かなやまひこのかみ)や、
 近江に祀られる天一箇目神(あめのひとつめのかみ)
 とも同神と思える神さまが、ここにも祀られている」

   ヒントを頼りに答えを求めること数日、なんと
  行き着いたのは、自身の過去ログ「角のある人の世」。

結論を言えば、琉球王国時代の地誌に見える、
 阿名呉之子(アナゴノシー)と阿名呉之姥(ファー)
のアナゴとは、「穴子」であり「穴師」であり、
久高島三元家のひとつ・久高家の始祖であり、
古代天孫氏王朝の王と伝承される天地の大神様
(天王ガナシー、スサノオ)の子・猿田彦神と妃神。

その神徳は穴師の神であり、金穴(かなな)の神。
すなわち、大己貴命とは大穴持神ではないのか?
ここは古来、萱野鄕と呼ばれる産鉄地だったはずだ。
続く…。



by utoutou | 2018-08-23 21:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 183 箕面の神功皇后伝説

阿比太神社(箕面市桜ヶ丘)↓から
15分の徒歩の後、阪急電車で一駅離れた箕面駅へ。
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ある方に絶版の御著書を分けていただく約束だ。
そこに、「箕面の神功皇后伝説」が記されている由。
いわゆる三韓討征の後、凱旋した神功皇后は、
箕面の如意谷に宝珠を埋めたとの伝説があったと。


待ち合わせした箕面駅前で、以前も見た地図を見る。
(赤丸は私の加工だが)、左上は箕面山・瀧安寺。
右下は為那都比古神社。その間の赤丸が如意谷あたり。
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待ち合わせは『箕面の説話 道教と北摂』('94年刊)
の著者・飯島正明氏。箕面市史学会世話人であられる。

早速、駅前のカフェでお話を伺うが、残念ながら
「箕面神功皇后伝説」の原典・『豊島郷土史論』は、
池田市立図書館にあったが、現在は行方不明とか。
著者の島田福雄氏は他界され、確認しようがないと。

「ただ、確かにその本に箕面の如意谷に神功皇后が
如意珠を埋めたという伝説はあった」と、飯島さん。
そして、自署『箕面の説話』に次のように記した。
(要約)
☆神功皇后は新羅に勝利、多くの戦利品を得て帰った。
☆如意珠と各種の宝石、甲・弓・剣なども持ち帰った。
☆そのうち、武器は武庫山(六甲)に、甲は甲山に、
如意珠は箕面の山内に埋めた。
☆このことを知った者が如意珠を埋めた場所を掘ると、
弁財天女が白龍に乗って降臨し、白い雲を呼び、
西南に向かって飛び去った。
☆いまの如意谷の地名は、埋めた如意珠に由来する。

さらに、私としては残念なことだったが、
著書の題名に、『〜道教と北摂』とあるように、
飯島さんは道教という側面から箕面の歴史に
アプローチされ、「神功皇后の如意宝珠伝承」を
 渡来の霊山信仰が作り出したものと捉えておられた。

 私が「神功皇后の如意玉伝説」に期待したのは、
「その珠は琉球のぬぶし玉」では? という推理だった
 が、氏は琉球との関係は聞いたことがないと言った。


暑いなか、近くの京都資料館へも案内してくださり、
もうひとつの目的である「如意谷銅鐸」も見学したが、
それ以上、神功皇后伝説の背景を探るのは難しかった。
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東京〜箕面、灼熱の日帰り旅は空振りだったか…と
思いつつ、参った為那都比古神社(箕面市石丸)。
その境内で、あることにふと気がついた。
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境内には、少し前に紹介した由緒書きの石碑が。
〜 御祭神 為那都比古大神 為那都比売大神 〜
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そして、その隣には、来て、こうして
見なければ分からなかった、もうひとつの石碑。
そこには、為那都比古大神と一対神ではない、
為那都比売大神の名が刻まれていたのだった。

〜大宮神社 (為那都比売大神)白島 〜と。
冒頭、次の説明が刻されている。
〜国の指導により明治四十年に旧萱野村内に御鎮座
の次の神社が、この為那都比古に合祀されました〜
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前回のブログでも拝借した『実在したイナ王国』
(山内玲子著)に載る略図の意味に、初めて気づく。
御嶽の医王岩、その南に「⛩旧社跡地」とある。
その別名は大宮寺(神社)、祭神は為那都比売大神。
つまり、この地の地主神は為那都比売大神だった?
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為那都比古大神として祀られる
「イナ国の為那都比古」とは、由緒に「1700年前」
と記されることや「埋納銅鐸」からも分かるが、
半島か大陸からの渡来人であることは確かだ。

その為那都「彦」は、上古からこの地を支配した
先着渡来民の「姫」を娶ったのではなかったか。
母系制の集団に入り婿となるのが、弥生初期の聖婚。

ならばその集団は、神功皇后の出自と関係がある?
世にあまり知られなかった神功皇后伝説は、末裔が
かろうじて遺したものとすれば、一族は滅んだか…。

by utoutou | 2018-08-14 20:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 182 再び箕面へ

沖縄から東京に戻った数日後、日帰りで箕面へ。
いくつかの興味深い伝承や考察に出会ってから、
是非また訪れたいとそのチャンスを待っていた。

その伝承とは、「三韓遠征から帰った神功皇后は、
箕面の山中(如意谷)に如意珠を埋めた」というもの。

そして考察とは、弥生時代中期に箕面の東に位置する
「千里丘陵から、西は保久良神社(神戸市東灘区)までの
広範囲にわたって、イナ王国があった」というもの。

どちらも私にとっては初耳だったが、もしそうならば、
箕面の地を抜きにしては六甲山は語れないことになり、
当シリーズのタイトルも「イナ王国と瀬織津姫」と改め
なくてはならない可能性があるわけで、事は重大だ。


週末の箕面は最高気温が37,1度という猛暑日。
まずは阿比太(あびた)神社(大阪府箕面市桜ヶ丘)へ。
お昼どき、木陰のある鳥居の下では工事関係の方たちが
休憩しておられたので、写真は撮らなかった。
参道には木陰があったものの、拝殿前の聖域は灼熱…。
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阿比太神社。
 延喜式神名帳(925年)に見える式内社。
由緒に曰く、祭神は素戔嗚尊。応神天皇2年の奉祀。
語り部は、「この地が真実の蘇民将来の発祥地だろう」
と言うが、この件については改めて考えることにする。
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次に訪れたのは、箕面市郷土資料館(箕面市箕面)。
博物館ではない。駅近のショッビングセンターの地下に
資料館があり、さりげなく銅鐸が展示されていた。
聞けば、レプリカではなく正真正銘の本物ということだ。
如意谷銅鐸は高さは86㎝、3世紀のものとされている。
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箕面市如意谷で散歩中の市民によって銅鐸が発見
されたのは、昭和41(1966)年の元旦のことという。
団地造成工事中にブルドーザーが掘り起こした銅鐸
は、すんでのところで全壊を免れて考古資料となった。
如意谷銅鐸は、人為的に横向きに埋納されていた。
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この日、最後に訪れたのは、
為那都比古(いなつひこ)神社(箕面市石丸)。
祭神は為那都比古大神、為那都比売大神。

箕面駅からタクシーで東へ10分、徒歩だと30分以上。
北千里と箕面の中間に位置。つまり千里と箕面は地続き。
また、為那都比古神社の北北西へ徒歩10分で如意谷。
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この為那都比古神社、その旧社地の大宮寺、
そして、現在も巨石として有名な医王岩、そして
銅鐸が出土した如意谷の位置関係はこのようになる。
※山内玲子著『実在したイナ王国』より拝借
(為奈山とは現在の箕面山のことを指しているようだ)
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箕面の医王岩を中心とした一帯を、山内氏は、
イナ王国の祭祀場と記したが、話は冒頭の伝承に戻り…。

ではなぜ、この地に如意珠を埋めたという神功皇后の
伝承は生まれたのか…。いま、その謎に強く引かれる。
「まさにそれが分かれば、アマミキヨの足跡は紐解けます」
語り部もそう言うのである。





























by utoutou | 2018-08-09 21:32 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 181 ブログ開設5周年の集い

ブログを始めて、早いもので5年が経った。
アマミキヨを知るための沖縄通いは、10年になる。
その年に語り部と知り合い伝承を聞き始めたものの、
膨大な情報量に反して、探求は簡単ではなかった。

ブログを始めて1年後だったか、私は尋ねた。
「(私が)東京に住んでいながら、沖縄のことを調べる
なんてこと自体、何か間違っているかもしれない」
すると、語り部は言った。
「アマミキヨの痕跡は沖縄だけにあるとは限らない。
むしろ、沖縄以外にあると思っていました」

「たとえば、どこに…?」
それには答えず、語り部は言った。
「三峯神社というは、どこにありますか?」
「埼玉県秩父市ですね」
「三峯の“三“という数字が重要かと思います」


そんな会話があったことを、沖縄で思い出した。
そして、27日(金)、沖縄県南城市玉城・天空の茶屋
の庭でお話し会を催した。こちら糸満方面を望む夕景。
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集まってくださった20名の方の前でお話をして歓談も。
最近は六甲山や箕など関西に出かけることが多いが、
アマミキヨの本拠地である玉城に来ると、さすがに
御嶽を巡り始めたころの記憶が、次々と甦ってくる。
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そこで、玉城と久高島が一対の聖地として伝承されて
きたことの意味に思いを馳せながら、お話をした。
「7つの首の蛇」というシリーズに書いたが、
本島側の玉城とその北東に位置する久高島には、古来、
「7つの稲田」と「7つの川」があったとの伝承がある。

玉城は琉球の稲作発祥の地、久高島は五穀発祥の地。
久高島は水源に乏しい土壌のため、稲作には向かない。

久高島の西海岸にある「7つの川」とは、正確には川と
いうより「川泉(かー)」で、この戦後まで、島の人は
そこに湧き出る水を生活用や祭祀のための聖水とした。

古代、その水は、製鉄にも使用されたのではないか…。
というのが、お話し会の最中に思ったことだった。

久高島で古代製鉄が行われたという記録はないが、
久高島を歩くといつも、もしかすると…と感じる。
ススキ、茅、萱などが、島のそこここ生えている。
「7つの川泉」が古代たたら製鉄の原料・褐鉄鉱の生成
 する葦原だったなら、ここは「豊葦原の瑞穂の島」。

それはあながち妄想ではないと思わせる伝承がある。
(お話し会では整理して話せなかったので、以下補足)

☆アマミキヨは久高島にシマグシナー(島軸)を立てた
☆それはスゥバ(茅)でできていた
☆アマミキヨの弟はカニマン(鍛冶屋)
☆カニマンガナシーは御先(うさち、上古代)の神様
☆島では、ススキやスゥバは五穀豊壌を祈る祭具
☆島の南にある小島(フシマ)は「火の島」と呼ばれた
☆イザイホーの祭りで神女たちが使う大扇に描かれて
いた鳳凰は、本来、火の鳥(フェニックス)だった
☆島の中央に「金の稲が生る田んぼ」があった


もしアマミキヨが古代製鉄の神だったとしても、
古代鉄の原料・褐鉄鉱は酸素に弱く腐食するので、
遺物として残らないと、真弓常忠氏など、古代鉄
の研究者はその著書で述べている。


またまた証拠のない捜査が始まるのか…
などと、この夜の満月を見上げて思ったものだが、
語り部が唐突に面白いことを言った。
「古代鉄で作った剣には、3種類あると思います」
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そう言えば、「神代三剣」の話は以前にも聞いた。
神代から伝わる三霊剣であり、支配者のレガリア。
・草薙の剣(くさなぎのけん)
・布都御魂(ふつのみたま)
・天羽々斬(あめのはばきり)

それがアマミキヨとどう関連するかは分からないが、 
古代の覇王は三人いたという意味ではないか。
またそれは、冒頭に書いた三峯神社と関係するか?

などと思ういま、あることに気がついた。
草薙の剣は熱田神宮の御神体として祀られているが、
古代鉄で作られているはずのその霊剣は、
なぜ酸化腐食もしないで現存しているだろうか?
こうしてまた果てしない追跡の旅は続く(笑)。

最後になりましたが、ご来場の皆様、天空の茶屋様、
読者の皆様、そして語り部様、長きにわたるご支援、
心より感謝いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。utoutou




by utoutou | 2018-07-29 14:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 180 為那国

為那都比古神社(いなつひこ神社、箕面市石丸)。
平安時代にできた『延喜式神名帳』(927年)に
見える古社「為那都比古神社二座」のこととされる。

鎌倉時代の1259年当時、比売神を祀る神社が
「西天王」と呼ばれ、現在の白島3丁目にあった。

『北摂の歴史』(郷土出版社)によれば、
〜 同社は別殿に分かれていたが、明治期の神社合併
で比売神が合祀されて現在のかたちになった。 〜
 
  『摂津誌』(1735年)の為那都比古神社の条にも、
〜白島村にあり。今天王と称す。萱野十村
    敬畏して祭りを修す〜 と記されている。   


そんな変遷を辿った為那都比古神社 ↓ の現在。
主祭神 為那都比古大神、為那都比売大神
合祀 天照皇大神、大山咋神、木花咲耶姫、
天児屋根命 、火之迦具土神、菅原道眞公
※写真は「トリップアドバイザー」サイトより拝借。
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社号碑に刻まれた由来に、「為那国」の名が見える。
〜当神社は摂津国の古社で、1700 年以前にあった
部族国家「為那国」の中心地で為那国を統括した
為那部族の守護神として祀られたと伝承され(中略)
通称、萱野の大宮として著名である。明治40年、
旧萱野村十ヶ村の産土神十社が当神社に合祀さる
昭和50年10月 為那都比古神社 〜
昭和50年には、「御鎮座地」が白島だったと分かる。
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「為那国」「部族国家」…。この由緒書には、何やら
邪馬台国や倭国大乱の時代を物語る重要な鍵が
隠されているような気がするのは、私だけだろうか。

また、「為那氏族」とは何者かも気になるところだが、
それはあえて、いまは置き、語り部の視た巨岩の御嶽に
ついて確認しておかなければならない。

巨岩については、くだんの『摂津誌』が記していた。
〜 寺後に巨岩あり、名づけて医王岩という 〜

江戸時代の『摂津名所図会』(1735年)にも記載が。
〜 自然石なり、高さ13丈ばかり、またの名 薬師岩
ともいう(中略)大己貴、少彦名の二神 生ます〜

ともあれ、語り部が視た御嶽の配置はほぼ正解だった。
神社が創祀される前、為那部の一族は巨岩の御嶽
を祭祀場として、その祖神を崇めていたのだったか。

始祖の神像は、次の2通りが考えられそうだ。

(1)語り部が視た「いなべ族」の移動先・三重県員弁郡
(いなべぐん)猪名部神社の主祭神で「やはり物部氏
 にも書いた、伊香我色男命(いかがしこおのみこと)。

(2)『先代旧事本紀』の国造本紀に見える、
「為那部等の祖・天津赤占(あまつあかうら)」。
いずれにしても物部氏、饒速日命の裔もしくは供奉衆だ。

さて、後回しになった問題。為那部族が統一支配した
らしい為那国とは、いったいどこにあったクニなのか。


こちらは、故鳥越憲三郎氏(大阪教育大学教授)編纂
による報告書『勝部遺跡』(豊中市教育委員会)に掲載
の「為那国の遺跡」と題した地図だが、つまり氏はこの
範囲が為那国であるという説に立っている。東の千里
丘陵(大阪府)と西の猪名川(兵庫県)の間の地域だ。
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これまで、
為那都比古神社、箕面川、猪名川など、箕面の各所には、
 この国の古代秘史が埋もれているかと注目してきたが、
改めてそれらと大和王権との関連を思わずにいられない。

地図下部の「神崎」。おそらくここは3〜5世紀
 ころの海岸線であり、神功皇后ゆかりの港湾でもある。

『摂津国風土記』逸文に、次の記述があった。(要約)
☆神功皇后が新羅征伐に出発するにあたり、神前松浦
(現・尼崎の神崎か豊中)で戦勝を祈願した。
☆すると猪名川上流・能勢の美奴売(みぬめ)山
(現・豊能郡三草山)の杉で船を造れば戦勝するに
違いないという神託があった。
☆戦勝した帰途、岬の沖で船が動かなくなったので、
美奴売神を祀った。


この女神こそは、水神・弥都波能売神(瀬織津姫)。
祀った神社は↓現在の敏馬神社(神戸市灘区)である。
今年の1月に参拝したが、そこはもう六甲山麓。
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地図に再び目を転じると、神崎と箕面とは千里川で
繋がっており、上流の丘陵(箕面市)から銅鐸が出た。
あの医王岩に至近の場所から。その名は如意谷という。


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【お話し会のお知らせ】
7/25は、当ブログ開設5周年にあたります。
日頃のご愛顧に感謝して、語り部さんとブログ主
である私・utoutouによるお話し会を催します。
参加ご希望の方はコメント欄(仮名可)でお申込みを。
□日時 7/27(金)18:00〜20:00
□場所 沖縄県南城市玉城・天空の茶屋
□20名さま限定
□2500円(お食事・フリードリンク付き)
よろしくお願いいたします。



by utoutou | 2018-07-23 19:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(15)

六甲山と瀬織津姫 179 為那都比古神社

語り部が電話で情報を送ってくれるとき、その脳裏
にはVR(バーチャルリアリティー)が展開している。
神託としてのメッセージは想念として届くと同時に、
彼の脳内で、三次元の世界に具体化されるのだ
ろうと、私はいつも勝手に想像している。

ともかく、西江寺(せいこうじ)を出ようとすると、
沖縄にいる語り部から一本の電話が来た。
「箕面川より東の方向に巨岩の御獄がありませんか?」

「知りません」とは、こういうときは決して言わない。
「ちょっとお待ちください。確認します」と。
正直、巨岩か巨石があるかどうかは知らなかった。

が、箕面を訪れたことのない語り部に比べれば、
いま箕面にいる私のほうが、僅かでも何かを知って
いると、思いたい(笑)。

「知らない」のに妙な理屈だと思いつつ、いったん
電話を切り、スマホで西江寺HPの周辺地図を開く。
(※ ↓ 掲載の地図はそのHPから拝借)


図星だった。地図の下部分、左の赤丸が西江寺で、
目線を東へと動かしていくと、「医王岩」という
巨岩が描かれているではないか。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
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さっそく調べると高さ25mの巨岩=御嶽があった。
以下、文と写真は「ぷらっと 箕面さんぽ」から拝借。


【医王岩】
〜 白島の医王山から北へ300mほど上がったところ
にそびえる、高さ30mの3層に重なった巨岩です。地元
では、薬師寺岩とも呼ばれ、土地や生産を司る農耕神、
大己貴・少名彦の2神が生まれた地とも言われています。
人が立っている姿にも見え、頂きは人の頭に似て、その
不思議な姿は古代より信仰の対象とされています。〜
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医王岩の住所は、箕面市白島。西江寺から数㎞の東にある。
しかし、そのとき既に東京に戻る時間が迫っていた。

滝道を下りきり箕面駅ロータリーに着いたところで、
きょうはこれまで、と、恨めしげに地図を見上げた。
が、驚いたことに、なんと、
左の西江寺(赤丸)から東の方向に神社と寺もある。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
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それは、為那都比古神社(いなつひこじんじゃ)。
何分か前に語り部と話した「いな」の付く神の社だ。
かつて栄え、箕面の地も含まれると言われる、
多田銀銅山のあった猪名川町(兵庫県)と同じ「いな」。
そこには猪名川が流れ、下流域で箕面川が合流する。

そして語り部が視たという、猪名部神社(三重県)も、
住所の員弁郡(いなべぐん)も、いずれも「いな」だ。

ここ箕面に祀られていた「いな」の付く為那都比古とは、
いったいどのような神なのか…。医王岩との関係は?
あるいはまた、物部氏との関係は? 

物部氏であれば、
そこに我々の推理による沖縄から北上したセーナナー
や、アマミキョ族がいた痕跡は、はたしてあるのか?

為那都比古神社に参る時間はなかったが、その
「いな」族は、やがてどの時空へ辿り着くのだろうか?



by utoutou | 2018-07-14 17:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)