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六甲山と瀬織津姫 160 神泉苑の善女龍王

関西へ出張したので、神泉苑(京都府中央区)へ。
 千年の都・平安京、その最古の史跡。
桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(794年)した際、
造営されたという天皇のための広大な庭園(禁苑)。
縮小され、往時の十六分の一の広さになっているとか。

完成したのは800年頃、二条城・大内裏に南接。
太古からこの地にあったという大池(神泉)は、
法成就池(ほうじょうじゅいけ)と、朱の太鼓橋は
法成橋(ほうじょうばし)と、命名されている。

どちらも、空海が「祈雨の法力」を成就させて
三日三晩、雨を降らせ干魃を救ったという、天長元年
(824年)の有名な事績「天長の祈雨」に由来する。
東寺の空海vs.西寺の守敏の「法力争い」とも呼ばれる。

「天長の祈雨(雨乞い)」で空海が勧請したのは、
北天竺の北にある無熱池(むねつち、現在のチベットの
マナサロワール湖に比定される)いたという善女竜王。
(以下、栞より抜粋)
〜善女龍王は大師の懇志に感じて池中より大蛇の頭上
に金色八寸の御姿を現し、慈雲たちまちにして起こり、
甘雨の降ることはあたかも天瓢の水を注ぐが如く、
旱天(ひでり)の災はたちどころに解消したという 〜



女性ふたりが、法成橋をゆっくりと渡って来た。
願いごとを強く念じて、南(左)から橋を渡り、
そのまま善女竜王社(右)に詣ると願いが叶うという。
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善女龍王社は、法成就池に突き出るように鎮座。
ちなみに池の南にある本堂の御本尊は、聖観音菩薩。
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そう言えば、
「善女竜王とは龍宮乙姫ですね」と、語り部は言った。
室生寺の龍穴に住む善女龍王について話していたときに。

はたして異名同体の女神なのかと、そそくさと
ググってみると、まず、善女龍王とは清龍権現と出た。

空海が阿闍梨と出会った唐の長安・青龍寺の守護神で、
空海の帰国に伴い来臨してから、「清瀧」権現となった。
飛来してからは水神信仰と習合して、空海の祈雨修法
における祭神となったという伝承もあるようだ。


清瀧権現は、私の住む東京八王子の高尾山にも祀られる
婆加羅龍王(海神)の三女という。高尾山では「青龍」
権現と書くが、まさに善女龍王は海神の娘・龍宮乙姫。
高尾山ロープウェイ駅名・清滝の由来は「清瀧」らしい。
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善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女。
さらに、清瀧権現の化身は如意輪観音というから、
女神の系譜の混沌とした正統を見る思いがする。

↓恵方社に祀られる歳徳神(としとくじん)もまた
調べると、婆加羅龍王の第三王女、つまり善女龍王。
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では、
善女龍王と弁財天の関係はと↓弁天社の前で栞を開く。
「元はインドの大河の神・サラスバティ」とあった。

いっぽう、清瀧権現は市杵島姫であるという説もある。
それならば、善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女=
 如意輪観音=歳徳神=弁財天=市杵島姫(瀬織津姫)。
記紀の成立と天照大神の誕生から百年を経て、
抹消された瀬織津姫はかくも隠され多神化していた。
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空海の「天長の祈雨」には、ひとつの逸話が潜む。
善女龍王は、龍の頭に乗って池から現れただけでなく、
持てる龍王の宝珠を空海に授けたのだという。
(空海による『御遺告』の注釈書、『御遺告釈疑抄』)

なぜ宝珠のくだりは秘せられたのか。
善女龍王(龍宮乙姫)の宝珠を空海が得た824年、
龍宮から浦島太郎が帰還したと『元享釈書』等は記す。

遡って、浦島太郎が龍宮へ行った雄略22(478)年、
丹後の豊受大神は伊勢外宮に遷座したというが、
海部の伝承において、豊受大神=天御中主神である。

いっぽう、空海が唐から持ち帰った北辰信仰において、
北辰=龍神=北極星=天御中主神。善女龍王が空海に
 授けた宝珠は、海神族の魂の甦りを意味していた。
時勢がそれを許さなかったのだろうと思う。

by utoutou | 2018-02-18 09:58 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 159 空海の宇賀弁財天

「宇賀弁財天は、どこに祀られていますか?」
空海の出自を巡るあれこれを考えていたとき、
語り部から、そんな電話がきた。
「えーと、各地のお寺に祀られているでしょうけど…」

彼の脳内には、宇賀弁財天の像が現れているらしい。
頭頂に鳥居を戴き、蛇に巻かれた翁が顔を出して
いる弁財天。あの翁が宇賀神らしいが、語り部は、
「その宇賀神とは、どんな神?」と、問いかけている。


電話を切ってから、
「こちらが宇賀弁財天ですよね」と、画像をメールした。
興福寺(奈良市)の三重塔に祀られているという
「窪弁財天 坐像」をネット上から探し出して…。
※興福寺HPの国宝画像は転載不可ということで、
興福寺国宝特別公開展('11年)のポスターより拝借。
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窪弁財天は、何年か前、語り部に那覇市の首里末吉の
拝所に掛かる「弁財天と7人の日巫女」の掛軸を教えて
もらったときから、よく似た弁財天として記憶していた。


首里の掛軸は、聞得大君御殿にあったと伝わる掛軸と
同じ絵柄で、おそらく現存する最後の一幅と言われる。
あのとき、語り部は言っていた。
「弁財天の頭上の男神は、天御中主神に視えます」と。
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そんなわけで、興福寺の窪弁財天像を思い出した
 のだったが、この弁財天は空海にも所縁が深い。

興福寺のHPに以下の解説があった(要約)。
☆南円堂建立のとき、空海が完成を祈り天河弁財天
に参籠した際に、宇賀弁財天を感得した。
☆そこで、興福寺に窪弁財天として勧請した。
☆毎年7月7日に特別公開され、
法要が行われる。


ところで、興福寺は、室生寺とも所縁ある寺である。
室生寺の草創に関わったのは、興福寺の僧侶だった。
そして、室生寺創建のきっかけは、皇太子の山部親王
(後の桓武天皇)の病気平癒のための祈願だった。
桓武天皇は、後の淳和天皇の父…。

ここのあたりから、何かザワザワと胸が騒いできた。
室生寺と言えば、龍穴、龍神、空海の如意宝珠…。
弁財天が持つ如意宝珠は「龍より出る」と言われる。
どうやら胸騒ぎの元は、その龍神にあるらしい。

そう言えば、この時代はひどい干魃が続き、
空海は国家鎮護のため雨乞いの祈祷を繰り返したと
いうが、ことに有名なのは、淳和天皇の勅命で行った
神泉苑での祈雨である。ときは天長2年(824)年、
空海は北インドの善女竜王を勧請して国中を喜ばせた。

824年…。それは浦島太郎が龍宮から帰還した年。
この一致するタイミングは…そうだったかのか。
空海の雨乞いの逸話は、龍神の甦りを暗示している?
そして、龍神とは天御中主神のことではなかったか…。


by utoutou | 2018-02-09 18:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 158 続・空海の如意宝珠

四天王寺で空海の修行像を仰いだときの印象は、
数ヶ月ほど経ったいまも、胸に刻まれている。


石鳥居の西門を見通す極楽門の南に、それはある。
空海は延暦6(787)年、この四天王寺に住み、
難波の海に沈みゆく夕陽を拝して、西方極楽浄土を
観想する日想観(じっそうかん)を修したという。
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修行像の空海は錫杖を持っており、その錫杖に
結ばれた紐は、手前の地面に立つ錫杖に繋がっている。
こちらは触ることができ、振るとシャリリンと鳴った。
空海の錫杖も共鳴しているように感じられる仕組み。
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鳴らし終えて振り向くと、目の前に「一回一誦」と
いう装置があり、輪には般若心経が刻まれていた。
これを一回回すと般若心経を一回唱えたことになる。


視線を上げると、大木に半ば隠れている五重塔と、
その左に金堂の屋根が見えた。そのときだった。
空海は物部守屋と向き合っている…という気がした。
実際、五重塔と金堂の間の東西軸の先に守屋祠はある。
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その配置が意図されたものかどうかは知らないが、
空海と物部守屋の関係は、やがて六甲山の瀬織津姫
に繋がっていくのかもしれないと、ふと予感した。

空海の父方は、讃岐(香川県)の佐伯氏だが、
空海の母方一族は、阿刀氏(あとうじ)といい、
物部氏と同祖の伝承を持つ古代氏族だった。

跡部神社(現・大阪府八尾市亀井町)の鎮座する
河内国渋川郡あたりを本拠としていたと言われる。

跡部神社。現在の祭神は天照皇大神、阿刀大神、
八王子大神だが、創祀は饒速日命だったと伝わる。
写真は「なにわ大阪を作った100人」より拝借。
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阿刀氏(跡部首)は饒速日命の天の磐船の船長
・天津羽原を祖とし、大和川の要所で水運を掌握した。
(※写真はNHK『歴史秘話ヒストリア 聖徳太子の棺』
  太子道のコーナーより拝借)
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空海の母方にあたる阿刀氏について、谷川健一氏
は『古代の地名』に次のように記した。(要約)

☆阿刀という氏姓の元は安曇で、朝鮮半島との
海運を掌握した安曇氏の本拠は志賀島だが、移動
するとともにその姓も変化した。奈良や近江では
安堵(あど)に、難波や大和では阿刀になった。
☆そこに部がついて、阿刀部(あとべ)になった。
☆天の磐船の船長は阿刀部首の祖(※天津羽原)
であり、梶取りは阿刀造の祖(※天津麻良)である。
☆大和川の水運も、阿刀氏(安曇氏)が握っていた。
☆蘇我氏と戦った物部守屋は、逃げて跡部に行った。


すると、蘇我馬子が物部守屋を攻めた所と言われる
「阿都の館」は「阿刀の館」とも考えられるわけか。

物部氏とはもちろん、阿刀氏と安曇氏が同族という
ことは、如意宝珠を考えるうえで、かなり重要だ。

例えば、三韓遠征した神功皇后に「珠」を授けたのが
安曇磯良だったのは、綿津見神の子孫だったからだ。
「珠」とは、龍宮の龍神から生まれ出たものだった。

それならば、
空海が唐で恵果阿闍梨から如意宝珠を授かったのも、
安曇氏同族の血を受け継いでいたからではないか…。


by utoutou | 2018-02-04 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 157 空海の如意宝珠

琉球でいう御嶽。神の降りる山・三室山。
御室山、室山、室根山など、転化した地名は多いが、
いずれも三輪山こと御諸山(みもろやま、みむろやま)
と同様に大物主神(ミムロ神)の坐す聖山を指すようだ。

大物主神の霊を継いだ神(首長)が饒速日命と捉え、
そのことを書いた(記事は こちら)こともあった。
三室山に坐す神を祖と崇めたのは、物部氏、また、
饒速日命と同時に天降ったと言われる海人族の諸氏と
考えられるので、斑鳩の周辺に三室山が複数あるのは
当然のこと。そして、三輪山(御諸山)の東方にも…。


室生山である。麓に室生寺(宇陀市室生)がある。
↓ 雪の室生寺・金堂。※All Aboutサイトより拝借。
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室生寺公式サイトに、ミムロ山の解説が載っている。
(要約)
☆室生は室・牟漏とも書き、土地の人はムロと読む。
☆ムロとはミムロという神の坐す山のことで、大和
でもっとも知られたミムロ山は、円錐形の三輪山。
☆室生山も円錐形の神山で、奈良時代末期に皇太子
の山部親王(後の桓武天皇)の病気平癒のために
僧侶らが祈祷すると治癒したので、朝廷の命により
興福寺の僧・賢憧が室生寺を建立した。
※山部親王の時代とは、宝亀年間(770〜781年)


つまり、この地には、室生寺が創建される以前から、
室生山への信仰が根づいていたわけだった。一説に、
山部親王の回復は、この地の龍神の力によるというから、
室生川近くの龍穴(龍穴神社)に棲むという龍神の霊験か。

さて、室生寺に
所縁深いと言えば、弘法大師 空海(774〜835年)。
唐で密教を学び帰国した空海は、816年、高野山に
金剛峰寺を建立。823年、京都に東寺を建立した。


こちらは弘法大師空海上人の修行像(四天王寺)。
黙礼する参詣客が絶えない。昨秋参拝した折に撮影。
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また空海は、室生寺近くの如意山に、唐の時代に師と
仰いだ恵果阿闍梨より戴いた如意宝珠を埋めたという。
そのことは、京都・東寺に残された空海の遺言状
『遺告二十五箇条』の第二十四条に記されている。

室生寺に関連するリアルなくだりを抜粋すると…。

〜 (如意宝珠を埋めた場所は)いわゆる精進峰。
土心水師が修行した山の洞穴の東の峰なり。
ゆめゆめ、後人にその処を知らしむることなかれ 〜

文中の「土心水師」とは、空海の高弟・堅恵とされ、
室生寺の南門に仏隆寺を創建した僧侶。空海が如意
宝珠を隠した「精進峰」とは、現在の如意山という。

その如意宝珠は、なんと埋蔵以来、千年以上も経った
昭和21(1946)年、まさに如意山から発掘された。
如意山頂上に立つ石造納経塔の調査をしたところ、
琥珀玉や巻物や当時の和同開珎が見つかったという。

千年の眠りから覚めた琥珀玉、空海の如意宝珠。
なぜ琥珀玉なのか、そこには大きな謎が隠れている
ように思われるが、ともかくその珠は埋め戻された。

空海がなぜ、金剛峰寺や東寺ではなく、この室生寺に
師・恵果阿闍梨から授かった如意宝珠を埋めたのか?


室生寺奥の院に秘蔵される如意宝珠曼荼羅(掛軸)。
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そこには空海の出自が関わっていると思えてならない。
空海の母方の祖は阿刀氏で、天降りした饒速日命に
船長として従った天津羽原(あまつはばら)とされる。
空海にとって室生山は、祖霊の坐す聖山だったのでは?
つづく…・











by utoutou | 2018-01-29 09:10 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 156 三室山は縄文の神山

三室山(標高137m)は龍田大社(奈良県三郷町)
の神南備山だが、もうひとつの三室山(標高82m)
も、東隣の斑鳩町に鎮座する龍田神社の神南備山。

その距離、わずか4㎞。どちらが本来の三室山か
といった本家争いが続いているというが、はたして?

龍田大社の神域と言われる三郷町立野の三室山は、
生駒山脈の最南端部分を竜田山の一部を指している。
↓ 写真は、JR大和路快速で三郷駅から大阪天王寺
へ戻る車中、次の河内堅上駅の手前、大和川に架かる
端の上から撮ったものだが、写真右手方向が三室山。
写真前方は、大和川の難所・亀の瀬の地すべり地帯。
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いっぽう、もうひとつの三室山は斑鳩町神南に。
毎日新聞「見聞 竜田古道」の記事から地図を拝借、
赤丸で斑鳩町の三室山を加筆させていただいた。こちら
の三室山を神奈備山と仰ぐ龍田神社はその東北に鎮座。
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実は龍田大社に参拝した当初、近隣に二ヶ所の三室山
がなぜあるのかを謎と感じたものだったが、いま
その意味を深めると、さほど不思議とも思わなくなった。


龍田大社の境外摂社・神南備神社の登り口
その傍に「神奈備」について解いた説明板があった。
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〜 神奈備神社
神奈備山は龍田大社の摂社で、神奈備とは、
神が住む森という意味である。神奈備、神名備、神名火
の文字が使われているが、どれも「かんなび」と読む。
山が平地に接する端山にある。〜
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この摂社は、古くは三室山の麓に鎮座していたという。
思うに、三室山とは神奈備山であり、沖縄でいう御嶽。
本島で「ウガン山」「ムイ」、宮古諸島で「スク」、
八重山諸島で「オン」と呼ばれる「神の坐す山」なのだ。

神南備山のことを、大和神話では三輪山と呼ぶが、
人々は「ミムロ神の坐す山」「御諸山」と呼んだ。
いずれにしろ 〜 我をば倭の東の山の上にいつき祀れ 、
此は御諸の山上に坐す神 なり〜(古事記)と宣った
その神とは、縄文からの先住民が崇めた神・大物主。

語り部はかねてから言っていたものだ。
「国津神・天津神と呼ばれる神々が大和に来る前に、
この島々には天津神がいたと思います」

ふたつの三室山も大物主の神奈備山だったと思われる。
数えてみれば、日本各地には三室山が30ヶ所余りある。
例えば、3年前に参った酒折宮(山梨県甲府市)
の神南備山は、いまも三室山と呼ばれている。

また、例えば、
埼玉県北西に坐す金鑽神社には社殿はなく、背後の
 御室山を拝する三輪山(御諸山)と同じ信仰が残る。

 共通する神祭りは、太陽信仰ではない「御嶽信仰」。
なぜなら、どの三室山も太陽の昇る方向とは無関係だ。

ミムロ神の神格について、郷土史家・田中八郎氏は、
その著『大和朝廷と神々』に、こう記している。
(要約)
☆ミムロ神は人祖と考えられた「火の神」である。
☆御諸山には、特に太陽信仰の実態がなかった。
☆大和王権は三輪山頂に日向(高宮)神社を造り、
伊勢の天照大神を祀る日神祭祀を始めた。

そうだったのか…と思い当たるのが、河内に坐す
いくつかの古社に建てられている「遥拝所」だ。


他でもない龍田大社にも、社殿や三室山とは逆の
伊勢神宮(東)を向いた遥拝所の石碑が建っており、
神奈備信仰と太陽信仰のダブルスタンダードが窺える。
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縄文の女神・瀬織津姫は、決して日(太陽)神
だけを祀ったのではなく、太陽・月・星、
あるいは日・火・霊というすべての天神を祭祀する
霊力(しじ)高い全能の巫女だったのだろうと思う。

「原初の勾玉は、三つ巴ではなく球形だった」
という語り部の口伝を、いま改めて噛み締めている。
ゆえに、弁財天に身を変えた瀬織津姫が手にしていた
三宝宝珠は、球形をしていたのではなかったかと…。





by utoutou | 2018-01-22 09:46 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 155 イカルガの里

「斑鳩の里」といえば聖徳太子、だが、
斑鳩の呼称が聖徳太子が法隆寺を建てたときに
ついたのか、それ以前からあったのかは不明だ。

斑鳩の語源には、ふた通りの有力説があるという。
この地に多い鵤(イカル)が「日月星〜」と鳴くので
 里名となったという説がまずある(記事はこちら)。

もうひとつは、斑鳩の地主神・伊香留我志古男命に
 由来するとの説(記事はこちら)。一体どちらなのか ?

ただ、「セーナナーはイカルガへ行った」との語り部
のヒントによれば、もっと明快な結論に至りそうだが。
例えば、「饒速日命の一行は斑鳩を本拠にした」とか。
琉球の海人族が饒速日命と渡来したというのならば、
そうなるはずだと思うのだ…。


斑鳩の里・法隆寺。大和平野を一望する矢田丘陵
南東麓に位置。南(手前)より東院へと進む東西軸。
「日出処の天子」と自称した太子ならではの配置か。
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そこで、斑鳩の立地という点から再考してみた。

『日本書紀』によれば、推古13年(605年)に
聖徳太子は斑鳩宮に移住したが、その2年前の
推古11年(603年)、推古天皇が小墾田宮に移住。
ふたつの宮は、ほぼ同時期に造営された。

法隆寺が完成したのは、推古15年(607年)。
遣隋使の小野妹子が派遣されたのも、その607年。
翌年、妹子は裴世清(はいせいせい)を伴って帰国。

つまり、ふたつの新宮は、来るべき隋の使節団の
「視線」を強く意識して設計したものではなかったか。 
斑鳩の里も、法隆寺の伽藍や斑鳩宮の配置を含めて、
 倭国の仏教文化をアピールすべく建てられたのではないか。

ことに斑鳩は、難波と大和を結ぶ水路の中間地点に位置。
 大和川を遡ると、次第に視界に飛び込んで来る景観は、
 隋人の倭国に対する印象を大きく左右したことだろう。


↓こちら、法隆寺の五重塔(奥)と金堂。
法隆寺も現在は聖徳宗総本山斑鳩寺の異称がある。
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太子の斑鳩宮は焼失しており威容を偲ぶべくもないが、
さらに国賓に好印象を与えたのは「斑鳩」という地名
だったかもしれない。斑鳩とは山東省済南市の西にある
 街で、隋の長安から黄河を下るときに遠望できたという。
 「斑鳩」は、来賓に歓迎の意を評する演出ではなかったか。

さて、聖徳太子の第二夫人である膳妃の出自・膳氏は
 斑鳩の支配者だったといい、膳斑鳩という祖先がいる。

膳斑鳩の名は、『日本書紀』の雄略8年に
〜 觀膳臣斑鳩【斑鳩、此伝 伊柯屢餓(原文)〜
任那が新羅を救援するため派遣した高官だったと。

では、その雄略8年(473年)から、斑鳩という
 固有名詞があったかというと、そうではないらしい。

 原文の【 】内は訓注を示しているわけで、
「此伝(ここは…と云う)」は、漢文で言い表せない
 語句に付けた訓読み。つまり、書紀の編集者は当時の
 日本人に漢文表記の「斑鳩」は通じないと知っていた。
 そしてまた、膳「伊柯屢餓」の名前に隠された意味も。

  伊香色雄と同様に、そこには「イカ」が潜んでいた。
 膳氏の始祖は大彦命。後元天皇と鬱色謎命の第一王子。
母・鬱色謎命は、伊香色雄らの父・大綜麻杵命の姉。
 つまり、大彦命は伊香色雄の従兄弟、饒速日命の末裔だった。

  イカルガとは物部氏と関係氏族の拠点である、と思う。
  里はもっと広大だったかも知れず、三室山が2箇所に
  あるのも頷ける。三室山とは、御諸山(三輪山)と同義
だったのではないだろうか。つづく…。


南(大和川の方向)から撮った法隆寺・五重塔。
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by utoutou | 2018-01-15 13:41 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 154 イカルガの謎

風神・龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)を巡り、
ふたつの謎があった。ひとつ目は三室山について。
東の隣町・斑鳩町の竜田川沿いにあるのを見た帰り
だったので、三郷町にも同名の山があることに…??
こちら、JR三郷町駅前ロータリーに立つ案内板。
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案内板がどれも真新しかったことから、調べると、
ここ三郷町と西に隣接する大阪市柏市が連携して、
一昨年から「龍田古道」の整備とPRを始めたという。
どうやら、その動きには、斑鳩町vs.三郷町による
「三室山の本家争い」の一件も含まれているらしい。

そして、その「三室山」が、ふたつ目の疑問だった
「斑鳩の里の地主神・伊香流我 」を解く鍵になる?
また、「セーナナー(琉球海人族)はイカルガへ行った」
という語り部への神託解明へのアプローチになるか?


さて、その龍田大社。社殿の設えは感動的だ。
注連縄は雲を、紙垂(しで)は雷を表すというが、
そうした自然神のエネルギーをとても強く感じる。
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風や雲・雷・雨・土は、五穀豊穣をもたらす神だ。
まず、風(気)と火(陽)があった。そして、雷。
雷とは稲妻、稲作の伴侶だと考えられていた。雷は
空気中の酸素を分解して窒素にするといい、それを
 含む雨が降れば、土の栄養素となり豊作をもたらす。
そして風が吹き、よい土は周囲に広がるという好循環。

雷神と風神は、この地で稲作と産鉄を盛んにした
 らしい先住の民の大いなる祖神だったのだろう。


境内の池のほとりには、摂社・下照社があった。
傍の石碑には「紀元二千六百年」と刻まれている。
神社の由緒には「創祀二千百年前」とあったので、
それ以前から下照姫は祀られ、祀る人々がいたのか。
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下照姫は大国主の娘、天若日子と婚姻したと記紀に。
天若日子とは凡河内国造の祖・天津彦根命の亦名で、
下照姫は天御影命と比売許曽神(赤留姫)を生んだ。
またその末裔には、日子坐王に嫁した息長水依姫が、
さらに末裔には、神功皇后こと息長垂姫命がいる。


さて、本題…。
淀川の流域・茨田で生まれたとされる饒速日命の
の六世孫、伊香色雄(いかがしこお)命と、
伊香色謎(いかがしこめ)命の同母兄妹は、
予想に違わず、この地に痕跡を残していたようだ。

龍田大社の由緒に、崇神天皇の名がある(要約)。
〜 第十代崇神天皇の時代、凶作となり五穀は育たず
悪疫が流行したとき、自ら天神地祇を祭らせると、
夢に龍田の大神が現れ「この地に祀れ」と宣った 〜

龍田大神とは、天御柱大神(志那都比古神)
と国御柱大神(志那都比売神)。
志那(しな)とは、気・風・息長(長寿)を意味
すると同時に、この地に蟠踞した古代豪族・息長氏
の氏名の由来にもなっていると言われる。

その崇神天皇の母こそは、伊香色謎命だった。
その時代に五穀豊穣を甦らせた神とは風神、
そして、風神と一対神とされる雷神だったのだろう。
雷神(いかずちのかみ)とは「伊香」の語源である。

いっぽう、息長氏の系譜にも「いか」がいる。
天津彦根命---天御影神(天一箇目命)--意冨伊我都命
---彦伊我津命。物部氏と息長氏の両方に見る
雷神に由来する「いか」は、海人族たちが稲作と鍛治
の技術を携えて、渡来してきたことを物語っている。

すると、斑鳩(イカルガ)の語源は鳥ではない?





by utoutou | 2018-01-07 11:36 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 153 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈5〉

新年明けまして、おめでとうございます。
旧年中は多くの方にご来訪いただき感謝至極です。
本年も変わらぬご愛顧をよろしくお願い致します。

天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の六世孫
という伊香色雄命(いかがしこおのみこと)と、
斑鳩天満宮の摂社・地主社に祀られる
伊香流我伊香志古男(いかるが・いかしこお)命
とは、はたして系譜上の縁故はあるかという課題に
 ついて、越年してしまったが、年初めの推理を試みた。


まず、伊香色雄命は饒速日命の天降りた磐船神社
 (交野市私市)周辺を開拓した肩野物部の祖である。
天野川の南・伊香賀(枚方市)に住居跡地があり、
意賀美(おかみ)神社が鎮座する。意賀=伊香なのか?

 最寄りの万年寺古墳(4世紀中頃)は、伊香色雄と、
その妹である伊香色謎の墓だろうと言われている。

いっぽう、斑鳩天満宮の「伊香」については、斑鳩の
 西に隣接の三郷町に鎮座する龍田神社をヒントに考えた。



風神を祀る、龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)。
昨秋10月初旬、斑鳩の法隆寺から大阪へと戻ろうと
JR大和路快速に乗っていて、ふと思い電車を飛び降りた。
「風神」で沖縄久高島のヒーチョーザ(雷神)を思った。
息長氏ゆかりの神社だろうということも脳裏をよぎった。
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よく晴れた週末だったが、参拝客はそう多くない。
拝殿の柱に巻かれた縄に、縄文の龍蛇神を見る思い。
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主祭神は、天御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)
(別名・志那都比古神、しなつひこのかみ)
国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)
(別名・志那都比売神、しなつひめのかみ)

摂社には、龍田比古命(たつたひこのみこと)
龍田比売命(たつたひめのみこと)

「志那」とは、息長(長寿)を意味すると由緒にある
ので、ここは息長氏の開拓した土地だったに違いない。

本殿の南に摂社(白龍大明神、龍田えびす)が並び、
その端に三室稲荷社が何やらひっそりと祀られている。




稲荷社の存在は、ここが産鉄地だったことを示唆する。
そう言えば、駅から数分歩いた道はかなりの急坂だった。
風神の社らしく、近くに古代製鉄所の旧跡地もあるようだ。
風が強いことは、たたら製鉄の立地条件である。
息長氏は、産鉄で巨富を得た大豪族であった。






それにしても何故、この名が「三室稲荷社」なのだろう?
三室山ならば、それこそ斑鳩町の西南、龍田川の
西の岸辺にあると、法隆寺周辺の案内で見たばかりだ。


駅前を流れる神奈備川に立つ小さな案内板の前で、
ひとり首をしばらく傾げていた。法隆寺の三室山は、
この地点からは右「→」(東)に位置しているのに、
何故この龍田古道の左「←」(西)だと案内するのか…。
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あのときはまだ、三室山の存在が、饒速日尊や
伊香色雄・伊香色謎の兄妹と関連するということに
気づいてはいなかった。ただし、この龍田大社が
息長氏ゆかりの神社であると同時に、饒速日尊の直系でも
あるのだということには、すぐ思い至っていた。つづく…。



















by utoutou | 2018-01-03 19:49 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 152 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈4〉

ヤマトへ東征したと語り部の言うセーナナー
とは、饒速日尊の率いる船団に供奉した人々。
淀川を遡った後、「イカルガへ行った」と神託が
あったとのことだが、さて、これをどう紐解く…?

もちろん『日本書紀』などによれば、饒速日尊の
一行は、天磐船に乗り、現在磐座神社のある河内
 の河上に天降りた後、大和(奈良)に移ったというが、
その後、供奉衆はどこへ行ったかと神は問うている?

そもそも、
イカルガとはいったい全国のどこを指すのか。
まずは、法隆寺のある奈良県生駒郡斑鳩町が思い
 浮かぶが、イカルガは兵庫県や京都府などにある。

難題ではあったが、語り部からヒントになる話も。
「一族は、河内の河上から大和へ、そしてイカルガへ
行ったものの、再び戻って来たように視えます」
「饒速日尊のお供だった肩野物部氏は、移動したと?」
「河内に戻ったのは、大化の改新の前後のようです」
「なら、イカルガとは、聖徳太子の斑鳩の里ですね」
そのように、私には思われた。


10月8日(日)に拝観した法隆寺・夢殿(斑鳩町)。
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託宣にあったイカルガとは、斑鳩の里だろう。
饒速日尊が淀川を遡り河内の河上まで来た後に
大和へ南下したのだから、肩野物部氏も同伴して
生駒山地沿いに南下したと考えるのが自然だろう。
または、いったん大和へ行った後に斑鳩入りしたか…。



河内河上の位置は、↓「生駒山」の文字あたり。
南下すると斑鳩の里に近くが、そこは飛鳥への経路。
(NHK『歴史秘話ヒストリア 聖徳太子の棺』より拝借)
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では、「大化の改新」の頃にUターンしたとは?
大化の改新で天皇の宮は飛鳥から難波に移り、
政治の担い手は蘇我氏ら豪族から天皇へと転換した。
 物部氏は藤原勢力によって斑鳩を追われたのでは…。

そう言えば、語り部とはこんな会話もしていた。
「イカルガに、古い神社がありませんか?」
「それなら知っています。斑鳩神社がありますよ」


斑鳩神社(天満宮)のことは、法隆寺で知った。
私が訪れたのは偶然にも17年の秋祭りの日(本宮)。
夢殿(写真右奥)を見終えて歩いていると、南大門
と東大門の間を、5台の神輿が勇壮に往復していた。
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静謐な法隆寺の境内を、太鼓を激しく打ち鳴らして
神輿(布団太鼓)が練り歩く、斑鳩の地主神の秋祭り。
「大昔からのお祭り」と、担ぎ手の氏子さんも言った。
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法隆寺の鬼門(東北)に守護神として鎮座する
斑鳩天満宮(公式HPはなく『人文研究見聞録』で学習)。
主祭神は菅原道眞、創建はその後裔による。地主社に
伊香流我伊香志古男命(いかるがいかしおのみこと)を祀る。

地主神の名はイカルガ…。伊香に流れた我…?
そのとき、磐船神社の由緒で見た神名を思い出した。

肩野物部氏の祖として、次の名前が記されている。
饒速日命六世孫・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)。
斑鳩の地主神・伊香流我と同じ「伊香」ではないか!?




by utoutou | 2017-12-28 17:31 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 151 天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊〈3〉

琉球のセーナナー(海人七氏族)はイカルガへ行った」
語り部の言うことはいつも唐突だが、今回もまた…。

イカルガとは聖徳太子が法隆寺を創建した奈良の
「斑鳩の里」のことか、磐船神社の鎮座する哮ヶ峯なのか。
哮ヶ峯は「たけるがみね」と「いかるがみね」二通りの
読み方があるが、その理由は不明のようで謎めいている。


磐船神社(大阪府交野市私市)社務所の遠景。
社殿がないためか、社務所はどこか旅籠屋ふう。
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磐船神社の岩窟巡りを終え天の岩戸に出ると、
そこから先が哮ヶ峯(いかるがみね?)へ登る山道。
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磐船稲荷稲荷大明神。花崗岩地質のここは産鉄地か。
肩野物部の人々は、水田耕作を営んだという。
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さて、セーナナーについての口伝を、少しおさらい。
セーナナーとは、上古、沖縄本島の東に浮かぶ伊計島、
あるいはそこに連なる島々に住み、やがて船団を組んで
 ヤマトへと上ったと伝承される、「聖なる海人七氏族」。

沖縄本島東方に南北に浮かぶ久高島から伊計島までの
七島(北斗七星に例えられた)にいたと伝わることから
 そう呼ばれたが、明確に「七氏族」というよりも、整数の
  「七」を冠して「何部族かの海人たち」といった意味という。

それにしてもセーナナーが饒速日尊の船団であるらしい
 とは…少なからず驚くと同時に、なるほどなあと思う。 

「饒速日尊は久高島にいた」という神女おばあの口伝
(記事はこちら)を思い出しても、さもありなんと…。

また、久高島第一の祭祀場・外間殿に置かれた
いわゆる御賽銭箱「百甕(むむはめー)」について、
語り部が言ったこと(記事はこちら)も紐解けてくる。

「百甕とは、甕の字のついたヒコと、
百の字のついたヒメ、その一対神のことだと思う」と、
語ったその2柱の神とは、ヤマトの三輪山に住まう蛇神
・大物主神と、その妻・倭迹々日百襲姫命が当てはまる。
すると、琉球は大物主神の原郷ということになるか。

大物主神とは饒速日命のことだと、大神神社に参拝
の後に書いていたが(記事はこちら)、その亦名は
倭大物主櫛甕玉(やまとおおものぬしくしみかたま)命。
「甕」の一字が含まれている。

あるいは、天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日命。
その神名は『出雲国造神賀詞』にのみ見えているが、
やはり「甕」の一字が含まれている。


新たなる課題「セーナナーはイカルガへ行った」。
この秋に大阪・難波のあべのハルカスの16階(庭園)
から撮影した生駒山地の↓遠景写真を改めて見る。

生駒山は中央の山頂、その北麓(左)に磐座神社が鎮座。
いっぽう斑鳩の里は南(右方向)に位置。その距離18㎞。
どちらかに、あるいは両方にセーナナーの痕跡があるらしい。
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by utoutou | 2017-12-23 13:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)