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六甲山と瀬織津姫 179 為那都比古神社

語り部が電話で情報を送ってくれるとき、その脳裏
にはVR(バーチャルリアリティー)が展開している。
神託としてのメッセージは想念として届くと同時に、
彼の脳内で、三次元の世界に具体化されるのだ
ろうと、私はいつも勝手に想像している。

ともかく、西江寺(せいこうじ)を出ようとすると、
沖縄にいる語り部から一本の電話が来た。
「箕面川より東の方向に巨岩の御獄がありませんか?」

「知りません」とは、こういうときは決して言わない。
「ちょっとお待ちください。確認します」と。
正直、巨岩か巨石があるかどうかは知らなかった。

が、箕面を訪れたことのない語り部に比べれば、
いま箕面にいる私のほうが、僅かでも何かを知って
いると、思いたい(笑)。

「知らない」のに妙な理屈だと思いつつ、いったん
電話を切り、スマホで西江寺HPの周辺地図を開く。
(※ ↓ 掲載の地図はそのHPから拝借)


図星だった。地図の下部分、左の赤丸が西江寺で、
目線を東へと動かしていくと、「医王岩」という
巨岩が描かれているではないか。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
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さっそく調べると高さ25mの巨岩=御嶽があった。
以下、文と写真は「ぷらっと 箕面さんぽ」から拝借。


【医王岩】
〜 白島の医王山から北へ300mほど上がったところ
にそびえる、高さ30mの3層に重なった巨岩です。地元
では、薬師寺岩とも呼ばれ、土地や生産を司る農耕神、
大己貴・少名彦の2神が生まれた地とも言われています。
人が立っている姿にも見え、頂きは人の頭に似て、その
不思議な姿は古代より信仰の対象とされています。〜
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医王岩の住所は、箕面市白島。西江寺から数㎞の東にある。
しかし、そのとき既に東京に戻る時間が迫っていた。

滝道を下りきり箕面駅ロータリーに着いたところで、
きょうはこれまで、と、恨めしげに地図を見上げた。
が、驚いたことに、なんと、
左の西江寺(赤丸)から東の方向に神社と寺もある。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
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それは、為那都比古神社(いなつひこじんじゃ)。
何分か前に語り部と話した「いな」の付く神の社だ。
かつて栄え、箕面の地も含まれると言われる、
多田銀銅山のあった猪名川町(兵庫県)と同じ「いな」。
そこには猪名川が流れ、下流域で箕面川が合流する。

そして語り部が視たという、猪名部神社(三重県)も、
住所の員弁郡(いなべぐん)も、いずれも「いな」だ。

ここ箕面に祀られていた「いな」の付く為那都比古とは、
いったいどのような神なのか…。医王岩との関係は?
あるいはまた、物部氏との関係は? 

物部氏であれば、
そこに我々の推理による沖縄から北上したセーナナー
や、アマミキョ族がいた痕跡は、はたしてあるのか?

為那都比古神社に参る時間はなかったが、その
「いな」族は、やがてどの時空へ辿り着くのだろうか?



by utoutou | 2018-07-14 17:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 178 やはり物部氏か

話は「箕面弁財天」より続く。瀧安寺を出て
滝道を歩いていると、語り部からの電話が鳴った。

「その箕面川は、何という川と合流しますか?」
「確か、伊丹あたりで猪名川に合流するかと…」
「その猪名川は、イナべという一族と関係ありますか?」
そんな会話を交わした。

またまた難しいことを…と思いつつ、私は言った。
「猪名川と言えば、兵庫県に猪名川町がありますね。
そこに昔、多田銀銅山というのがあったらしいです」
語り部は「なるほど」と呟いたが、話を変えた。
「イナべ神社というのも、ありますか?」
「どこにですか?」
「三重県だと思います」
「三重県…!?」

電話を切って猪名部神社(三重県員弁郡)を調べる。
主祭神・伊香我色男命(いかがしこおのみこと)は、
「員弁(いなべ)の始祖」でもあると由緒は記している。
伊香我色男命とは饒速日尊の六世孫。物部氏である。

「箕(み)の面は籠目(六芒星)に編まれていた」
「それが箕面の地名の由来では」という語り部の見立て
が思い出される。やはり箕面には物部氏がいたのか。

「猪名川町、箕面、員弁が、物部氏で繋がっていた?」
「はい、可能性は少なからずあると思います」

そんなこんなの道草をしながら辿り着いたのは、
箕面山・聖天宮西江寺(しょうてんぐうせいこうじ)。
お寺なのに鳥居がある。神仏混淆時代の名残りのようだ。
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聖天宮西江寺【略縁起】(境内の説明板を要約)
☆斉明天皇4(西暦六五八)年、役行者小角が開基した。
☆箕面大滝で苦行した行者に大聖歓喜天が出現した。 
☆そこで、この地を日本最初の霊場とした。
☆摂津国豊島郡片手村は、これより箕面村と称した。
☆聖武天皇の勅願で、摂津国神宮寺と称した。
☆明治時代の神仏分離により現在の山号に改称した。
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本堂・大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)。
伝承によれば、役行者が箕面大滝で出会った龍樹菩薩
とは、本邦で初めて出現した歓喜天のことで、いまも
西江寺の境内に残る対談石が、そのときの「舞台」。
龍樹菩薩は役行者に言ったという。「この山は
自分の領地だが、お前に与えるから伽藍を建てよ」と。
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本堂前に掛かる提灯には、大根と巾着が描かれていた。
大根はクロスしており、巾着は中央を紐で絞った絵柄。
拝殿の壁や線香の炉にも、大根と巾着の装飾がある。
歓喜天は、象頭人身の男女が抱き合った姿をしている。
つまりは、大根と巾着が暗に物語るように、陰陽二神か。
歓喜天の本地は、女神を身に隠した男神であるらしい。
そのためか、歓喜天と十一面観音の真言が掲げてあった。
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初参拝のため馴染みの薄かった歓喜天も、実は男女一対神
と捉えると、途端に神像のイメージが描きやすくなった。
例えば、瀬織津姫と天照大神、瀬織津姫と猿田彦大神、
またはヒコとヒメ、イザナギとイザナミ、琉球では、
イキガ(男)とイナグ(女)、ウミキ(王)とウミナイ(妃)。
この箕面山の地主神とその妃神ということなのだろう。
こちら弁財天堂の左奥には、白龍歓喜天の小祠があった。
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というわけで、
役行者は地主神を祀る先住の民と融合したようだが、
その一族は、はたして「イナベ」と関係があるのか…。

語り部の透視が冴えていたこの日、再び電話が鳴った。
「箕面川より東の方向に、巨岩の御獄がありませんか?」


by utoutou | 2018-07-03 18:13 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 177 有馬・高槻断層帯

語り部の口を突いて出た「いなべ」の一族を探す前に、
箕面を襲った地震について思い出したことがある。

瀧安寺を出て、箕面川の滝道を下って歩いていた。
約1ヶ月前の夕方4時半。擦れ違いに登っていく人は
もう誰もいない。そして、木々はほんのり黄色く見えた。
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数分ほど歩くと、滝道のカーブ右手に句碑がある。
野村泊月という俳人の作という一句に足を止めた。
〜椎の花 八重立つ雲の 如くにも〜
明治生まれで高浜虚子に師事したホトトギス派の人という。
※写真は、箕面ボランティア協会様のHPより拝借。
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椎の花がなぜ雲の如くに咲くのかと首をかしげたが、
その場で調べると、箕面山には瀧安寺を中心として
椎の木が多く、新緑の頃は山肌がクリーム色に染まると
知った。だから、あの瀧安寺の山も黄色く見えたのだ。
振り向くと、〜椎の花 八重立つ雲の 如くにも〜 
という、まさに新緑の箕面山の景観がそこにあった。
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滝道で、もうひとつ気にかかったこと。
句碑の背後の岸壁は有馬・高槻活断層の路頭だと、
同じHPで知った。次のように記されていた(要約)。

☆野村泊月の背後に見えるのは、活断層の路頭。
☆有馬の西部から高槻の東部に至る55㎞の間を走る
「有馬高槻構造線」と呼ばれる活断層の一部である。
☆この活断層が活動して起きた最近の地震が、
慶長元(1596)年の「慶長伏見大地震」で、
箕面を含む北摂地方は、壊滅的な被害を受けた。


有馬・高槻活断層(=有馬・高槻断層帯)とは、
6月18日の朝に起きた大阪北部地震の震源とされる。
その422年前の慶長伏見大地震では、豊臣秀吉が建てた
伏見城の天守が倒壊したが、瀧安寺(箕面寺)もまた
 全壊したと、『箕面寺秘密縁起』(明暦2年)は記す。


慶長伏見大地震で全壊した箕面寺は、明暦2年に
後水尾天皇勅願による再建が始まり、大滝の下あたり
にあった旧地から、現在地に移されて完成したという。
こちらが、箕面山 瀧安寺の本堂(弁天堂)。
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有馬・高槻断層帯が震源とされる地震は、今回まで3回
起きたという。ひとつ目が慶長伏見大地震。その前が奈良
から鎌倉時代にかけて。その前が縄文晩期のBC1000年頃。
活動周期は1000年から2000年というが、今回は短い。


ところで、658年に箕面で修行したと伝わる役行者。
その最大の伝説地・葛城山(金剛山)は、中央構造線
の北側に発達した領家変成帯の中に位置しており、
古くから、鉄・銅・朱砂の鉱物が豊富な土壌だった。

では、有馬・高槻断層帯に位置する箕面はどうか…。

葛城山で修行していた25歳の役行者が、箕面の方向
に五色の雲を見て三鈷杵(さんこしょ)を飛ばすと、
それは箕面大滝の上の松に掛かったという伝説は、
この地に鉱床があることを暗示しているのではないか。

そもそも三鈷杵とは、金剛蔵王菩薩の持つ法具だ。
「金剛蔵王とは埋蔵する金属を支配する王」との説も。

役行者を主尊とする瀧安寺・行者堂は、脇尊に、
不動明王像と蔵王権現像を安置している。
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これら諸々を考え合わせると、
箕面の古代に関係するらしい「いなべ」の一族とは、
箕(み)を用いて鉱物を採る人々だったのかもしれない。
語り部が言うように、箕の面が籠目だったなら物部氏か。


by utoutou | 2018-06-24 16:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 176 箕面弁財天

箕面山 瀧安寺(大阪府箕面市箕面公園)について
書こうとしていた、きょう18日(月)の朝8時ごろ、
箕面市を含む大阪府北部に震度6弱の地震が襲った。

2時間後、私を箕面に案内してくれたMさんに連絡をとる
と、阪神大震災ときのような強い揺れだったとのこと。
ご無事だったとはいえ、ガスがまだ止まっているという。
箕面市を含め関西在住の皆さまのご無事をお祈りします。


さて、箕面山 瀧安寺境内を歩いてもっとも印象深かった
のは、他でもない、役行者とマニ宝珠の組み合わせだ。
「神変大菩薩」と石標のある行者堂の傍に佇んでいる。
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妙音弁財天と南国の聖木・蒲葵(クバ)とマニ宝珠。
弁財天の傍に立つクバ…はたして偶然か何かの暗示か。
弁財天の立ち姿を仰ぎ見て、しばし妄想にふけった。

背後の眼下に箕面川が流れている。
弁財天=インドのサラスバティ=水の女神。
「箕(み)の面は籠目に編まれている」と言う語り部は、
そこに六芒星と籠の中の鳥と、物部氏を視たに違いない。
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境内の手前東に妙音弁財天、西に行者堂と役行者像。
参道を北へまっすぐ進むと、日本最古の箕面弁天堂。
瀧安寺HPによれば、最近、弁天堂拝殿の正面に、
弁天様の真言を彫った木版が設置されたそうだ。
弁天堂は滝道に続く。大滝へ登る途中で参拝する人も。
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弁天堂から下段に降りると、修験根本道場の護摩壇。
来たる7月7日11時、ここで大護摩供が催行される。
〜関西一円より山伏が集結し、世界平和をはじめ参拝者
の願いを護摩木に添えて不動明王に届けます 〜
奥の小祠には弁財天が祀られている。祭祀の配置から、
不動明王=弁財天=瀬織津姫の異名だと無理なく分かる。
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弁財天の手前に役行者の石像。前鬼と後鬼が控える。
神変大菩薩こと役行者が弁財天を守護している。
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観音堂の内部には、壁画に如意輪観音が描かれている。
この観音もまた、瀬織津姫の異名であった。
本堂前(写真右)に置かれたマニ宝珠の傍の案内は、
〜マニ宝珠 本尊の象徴・シンボルです
手で触れてお祈りください 〜
こちら観音堂には、如意輪観音・不動明王・阿弥陀如来
の像を安置。拝殿表には弘法大師(空海)の扁額も掛る。
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マニ宝珠、如意輪観音、弁財天、不動明王(=瀬織津姫)、
大黒天(=猿田彦、天照大神)、役行者、弘法大師・空海。
瀧安寺から滝道へ。箕面川の赤錆びた川石を眺めて思う。
役行者はなぜ箕面に来て籠り、弁財天を感得したのか?
そしてなぜ、箕面山の天上ヶ岳で夭逝したと伝わるのか?
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答えは、仏教伝来以前からこの地にいた民にありそうだ。
いっぽう役行者は、葛城山系や奈良・吉野の大峯山を
歩いたが、道はすべからく鉱物資源の宝庫で、そこには
役行者を助ける山師のネットワークが存在したという。
彼らは葛城山の土蜘蛛や吉野の国巣(くず)のように、
朝廷にまつろわぬ民。箕面にもそんな先住民がいたのか。

ぶらぶらと滝道を歩いていると、語り部から電話が。
「箕面川というのは、何という川と合流しますか?」
「確か伊丹あたりで猪名川に合流すると思います」
「その猪名川は、イナべという一族と関係ありますか?」

さて、はたして、イナべ一族は猪名川の由来なのか…。
そしてこの箕面にもイナべ一族の痕跡はあるのか…。
そもそもイナべさんとは何者なのか…。

















by utoutou | 2018-06-18 20:52 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 175 箕面大滝の龍穴

瀧安寺(大阪府箕面市箕面講演)へは、阪急線箕面駅
 から川沿いの緩やかな上り坂(滝道)を15分歩いた。

箕面山瀧安寺(りゅうあんじ)。
飛鳥時代(658年)に修験道の開祖・役行者が開山した。
箕面大滝で苦行の末、弁財天を感得して悟りを開いた
ことから弁財天のお堂を建立。箕面寺と称したという。


瀧安寺と命名したのは、後醍醐天皇。
山門は光格天皇(江戸末期)が京都御所の門を下賜。
「瀧安寺」と記した扁額は、京都聖護院の座主の作。
山門の先、正面に観音堂が見える。
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観音堂に向かって右手に、箕面川にかかる朱色の
太鼓橋(瑞雲橋)。対岸には本坊や客殿などがある。
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さて、境内を進むと古い石段に出た。中央にしつらえた
赤い手すりの下部には金の勾玉。またもや宝珠が…
ということで、迷わず弁財天堂へと登ってみた。
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境内は、箕面川(右崖下)に沿って奥へと広がる。
 百度石といい、石鳥居といい、神社の佇まいである。
正面は日本最古の弁財天像を安置する弁天堂(本堂)。
左の赤い屋根が大黒堂で、本尊は大黒天と恵比寿天。
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ところで、
役行者が箕面に来た7世紀、瀧安寺の名はまだなかった。
 箕面寺を開いた頃の様子は由緒に見えるが、
これがどうにも謎の多い文章である。

〜西暦658年、役行者が箕面瀧で修行し、弁財天の導きを
受けて悟り宗教家として大成しました。行者は報恩感謝
のもとに、自ら弁財天の像を作成し、瀧の側に祭祀して
箕面寺と称しました。〜

箕面瀧で修行、そして瀧の側に弁財天像を祭祀…?
修行場は瀧上か滝壺か? 瀧の側はどこを指すか?
そんな疑問が浮かんで来るが、開山から
 1400年近く経たいま、瀧の上は箕面ダムとなり、
 修行の場や当初の草庵の痕跡を見つけることは難しい。

ところが、それらの謎を紐解くヒントは、
 ふと開いた『摂津国名所図会』(1796年)にあった。


【箕面瀧】
中央の赤丸(私の加工)に「不動」と記された庵がある。
これが、由緒が語る「瀧の側の祭祀場」なのだろう。
また不動の右上から山頂の「座禅石」まで、登山道がある。
大滝の真上には、「三鈷松」と記されている。ちなみに、
右下の「唐人戻岩」は、現在と同じ位置だと考えられる。
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『摂津国名所図会』には、各所についての絵解きもある。
(要約)
☆三鈷松…瀧の上にあり。ここに役行者の三鈷が掛かった。
☆龍穴…三鈷松の側にあり。岩間に三丈(※3m余)の
大きさで、深淵にして蒼色、その深きこと測りがたし。
☆座禅石…奥の滝の上にあり。行者はここで修行した。
☆白龍石…同じ場所にあり、弁財天が白龍に乗り降臨した。
  ☆天上嶽…箕面山の絶頂。ここで役行者が昇天したという。 



箕面大滝に行った日から約3週間が経つが、きょうまで
 もう一点、私にはピンと来ない語り部の見立てがあった。
こういう話だった。
「箕面大滝の上に、小さな池と小さい祠が視えます。
それは瀧上の龍穴の入口のようです。内部は平らで広く、
さらに何百mか下まで、トンネル状に続いています」
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語り部の話を聞き、瀧安寺では試しに龍穴の出口を探した。
役行者の石像があったので傍らの小祠を覗き見したり…。
確かに中には、井戸らしき囲いが見えたが、大滝から
現在の瀧安寺は大滝から1.6km離れている。
まさかこれではないだろう…と、ひとり苦笑した。
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その疑問についても、いまようやく合点がいった。
『摂津国名所図会』瀧安寺の項目に、次の解説がある。
☆神水…行者堂の傍らにあり、加持水なり。

あれは神水の井戸のようだった。すると、やはり、
龍穴の出口とは、語り部の見る元々の箕面寺の場所か。
いろろいな疑問が少しずつ溶解し始めたいま、
当初、語り部と交わした会話を改めて噛みしめる。

「箕面大滝の上が、アマミキヨ族が落ち着いた場所では
ないかと思います。ところで、箕面の意味は何ですか?」
「大瀧が、農具の“箕(み)”に見えるからだそうです」
「いや、“面”のほうに意味があるはずです」
「面ですか…?」
「竹か何かで編んだ、籠目が見えます」
「籠目…六芒星…ですか!?」


















by utoutou | 2018-06-11 19:50 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 174 箕面大滝を遡った一族?

勝尾寺(大阪府箕面市勝尾寺)。山号は応頂寺。
高野山真言宗の寺院、西国三十三所の第二十三番所。

栞には、「勝運の寺 勝尾寺(かつおじ)」とある。
縄文時代より霊山として崇敬された歴史ある山という。
〜当山は大阪平野の真北にそびえ数千年の昔より
山自体の持つ霊力と、1300年念じ込んで来た念力により
無類の聖地として崇拝されてきた。〜


この日は、阪急牧落駅あたりを車で出発、
一駅隣の箕面駅前から右折して北へ進み、箕面大滝を散策。
さらに大滝から約3㎞、車でカーブ続きの林道を登ること5分
で、勝尾寺に着いた。8万坪ある境内はまるで聖地公園。
境内はどこも整備完璧で美しく、萌える新緑が目に眩しい。
全山が紅葉に包まれるという秋には参詣客で賑わうという。

〜奈良時代初期(727年)、善仲、善算両上人が山中に草庵を
構え光仁帝皇子・開成(桓武帝異母兄)が、両上人を師と
して仏界を求め、天平元(765)年、弥勒寺を開創。〜


御本尊は、十一面千手観音菩薩。
妙観という観音化身の比丘と18人の仏師が彫刻した。
全国観音縁日が18日なのは、この縁起によるという。
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本堂への順拝路には、三宝荒神も祀られている。
日本で最古の荒神様。1300年前に勝尾寺の初代住職
が瞑想中に感得したのが、創祀の由来という。
「厄難を払う」荒神様として、全国からの参拝者多し。
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境内いたるところに勝ダルマが奉納されていたが、この
荒神堂のダルマが、もっともインスタ映えすると思うと
語り合っていたら、栞にも↓これと同アングルの写真が。

勝ちダルマは、勝運信仰のシンボルだ。
〜当山仏法の祈願力には朝廷の権力も及ばなかった
ことから、王の勝つ寺「勝王寺」と清和帝が号した。〜
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さて、さきほどの本堂前に話は戻って…。
本堂に参拝して振り向くと、玉垣にもダルマが並ぶ。
高度はかなりあるらしく、一陣の風が通り抜けていく。
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そのまま目を転じると、鐘撞堂が凛として見える。
するとまた擬宝珠(ぬぶしぬ珠)が視界に入る不思議。
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それにしても、私は何をしに箕面に来たのだろうか。
一体この旅でアマミキヨ族の足跡に出会えるのか…。

下山して箕面駅でMさんらと別れ、
今度は箕面川の滝道を瀧安寺へと向かって登る。
歩きつつ語り部に電話すると、逆に質問がきた。

「箕面川の源流はどこにありますか?」
「箕面ダムじゃないですか」
「さらに源流まで遡ると、どこですか?」
「はあ。いまは歩いているので調べておきますね」

あれから旅は続き、3日後に東京に帰って日常に戻り、
最初の週末であるきょう、「源流」を知って驚いた。

箕面川の源流は、大阪府豊能勢郡豊能町高山。
ただしその山上部では、余野川が箕面川に合流する。
さらにその山上部では、牧川が余野川に合流している。


牧川…? 大阪府豊能勢勢郡豊能町「牧」の地名もある。
マキとは、先日来注目している、琉球古代集落の名前。
阪急バス路線物語というブログには、バス停の画像も。
牧バス停は、能勢妙見山へと登る山口バス停の隣だ。
そして牧は、山間を走るバス路線の終点。

この大阪平野の真北にあたる、険しい
山間部に北極星(にぬふぁぶし)を祀ったのは…
古代、この地に渡来したアマミキョ族ではなかったか?
しかし、箕面川に大滝がある以上、遡ることはできない。










by utoutou | 2018-06-03 21:23 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 173 アマミキョ族の移動

大阪府箕面市に住むMさんから興味深い話を聞いた。
箕面市に牧落(まきおち)という地名があり、
それを伝えると、久高島の神人は言ったそうだ。
「牧落は、古代に琉球から移動したマキョ族の集落
だったのではないかと思います」と。

「マキョ族ですか…」
驚きつつも、アリかもしれないと、私は思った。
マキョについては、仲松弥秀氏が『神と村』に記した。
(要約)
☆東北日本海沿岸の山間部には、マキ名を持つ
集落があるが、マキとは同一血族集団の村落名である。
☆沖縄にも、マキやマクを含む村落名がある。
☆同じ意味合いで、マキョやクダを含む村落名があるが、
いずれも、同一血族集団の村落名である。

語り部にある伝承を聞いたときの会話も甦ってくる。
「アマミキヨは血族のことだと、ミントングスク
のおじさんから聞いたことがあります」
そのとき、私は思ったものだ。アマミキヨの意味は、
「渡来の人」ではなく、「アマ・ミキョ族」
つまり、「天から来たミキョ族」の意味ではないかと。
マキョ族とミキョ族、とてもよく似ている。

マキやマキョについて、何か他にも資料はないかと、
那覇に戻った翌日、牧志にある市立図書館へ行き、
『沖縄の古代部落マキョの研究』という本を読んだ。
稲村賢敷著、1977年、発行はペリカン社(東京)。

比嘉春潮氏による「序」に、「マキョ」が出てきた。
〜沖縄学の父といわれる伊波普猷先生は、その
『琉球国由来記解説』の中に「マキョは語源は多分真子で
で、古くは氏族、もしくは血統の義に用いられたらしく、
つとに祖神を同じうする血族団体の住居する地域の
義に転じて、現在に至っているのである」とされ、
また、「マキョのことは、南島の古代社会を解明すべき
手がかりになる」とも言われた。〜

稲村氏は、
首里王府編纂の『琉球国由来記』や『琉球国旧記』に
掲載された古代部落や御嶽の名に多く含まれるマキ
やコダ(クダ)に注目して研究を深め、まとめた。

閲覧室で読んでいると、語り部から電話が入った。
「それは、稲村賢敷さんという方の本ですか?」
「はい、そうですけど」
語り部がさらに聞く。
   「それは、昭和43年に出た本なんですか?」     
「いえ、1977(昭和52)年のようです」

語り部が初めて見立て違いをした…? と思ったが、
巻末の解説で、私の早合点だったことが分かった。
〜『沖縄の古代部落マキョの研究』は1968年、
琉球文教図書株式会社からその初版が刊行され 〜 
'沖縄県内では、実に'68(昭和43)年に出版されていた。

語り部が見たことも行ったこともない事柄に関して、
こんな図星な指摘をするとき、私はいつも思う。
琉球の神々が動いている。そして、今回もまた…。


そんなわけで、このブログは大阪から東京へ帰る新幹線
の車内で書いている。久高島でMさんに出会ってから
1ヶ月、牧落という地名の由来は調べがつかなかった
が、Mさんらのご案内で箕面の地を歩いてきた。


箕面市でいちばんの観光地・箕面大滝。
電車だと、阪急線牧落駅の隣の箕面から約3㎞歩く。
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次なる名所、高野山真言宗・勝尾寺へも。
勝ちダルマて有名。本尊は十一面千手観音菩薩。
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勝尾寺に入ってすぐ、弁天池に弁財天が祀られていたが、
太鼓橋に乗った擬宝珠(ぎぼし)に、目が釘付けになった。
如意宝珠、沖縄では「ぬぶしぬ玉(魂の玉)」と呼ぶ。
(関連のブログ記事はこちら
どうもこれが、箕面旅のキーポイントになる気がした…。
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by utoutou | 2018-05-28 20:00 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 172 久高島の十字

久高島において、宇宙の四元素を表す「十字」を、
表すものは、葉の対生する神木・アザカしかないのか
…と、しばらく考えていたが、ようやく思いついた。
イザイホーを催した祭祀場・久高殿(くだかでん)
に隠された神祀りの構造がまさしく十字であった。


新月の久高島('16年10月)でも使用した
この写真は、同月1日の朝7時すぎに撮ったものだが、
東から昇った朝日は、神アシャギ(神殿)などが並ぶ
「東西軸」をまっすぐ貫くようにサンサンと輝いていた。
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↓ 久高島の主祭祀場・久高殿。中央が神アシャギ、
右がシラタル宮、左がバイカンヤー(イラブー燻製場)。

いまは途絶えた祭り・イザイホーで、聖なる庭に入った
神女たちは、手前(南)から神アシャギへと駆け込み…
つまり、「南北軸」を通って奥のイザイ山に籠った。
イザイ山には新しい神女たちが三日三晩にわたって籠る
七ツ屋が建ち、傍らにはアカララキが祀られていた。
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同時に、これまでいまひとつ理解できなかった
語り部のある話が、腑に落ちるようになった。
数年前、イザイホーを霊視した語り部はこう言った。
「イザイホーの祭りの真ん中に、猿田彦が立っている」

猿田彦大神(二ライ大主)が出現したその聖所とは、
東西軸と南北軸の十字路(アザカ)に建つ神アシャギ。
神女たちは、「エーファイ(神へ急げ)」と唱和
しながら、「アザカ」の猿田彦の元へと走ったのだ。

そう考えると、『日本書紀』にある例の一文…
〜 一(ひとり)の神あり、天の八衢に居り〜
の意味も違和感なく理解することができる。また、
大和神話の世界は、この神の島の祭祀を祖型に
して成立したものだったのだろうということも…。

これまで、アカララキについてどれほどこのブログ
で書いてきたものか前回振り返ったが、では猿田彦に
 ついてはどうかと調べると、こちらも負けていない。


天岩戸と猿田彦('14年10月)
消えた猿田彦神('14年10月)
伊雑宮と猿田彦神シリーズ('14年11月)
シャコ貝とアザカと猿田彦シリーズ('14年12月)
イザイホーシリーズ('15年1月)
つまりアマミキヨ('15年2月)
猿田彦の下駄シリーズ('15年2月)
猿田彦神社('16年1月)
猿田彦大神('16年9月)
猿田彦の子午線('17年8月)


そもそも、猿田彦を追跡するようになったのは、
二見興玉神社(伊勢市二見町)への参拝がきっかけ。
'14年に行った伊勢神宮へのバス旅は、ちょうど朝日の
昇る時刻の二見興玉神社を第一の目的地としていた。
それからというもの、猿田彦を追跡して伊勢神宮へ
伊雑宮へ、またその関連を求めて久高島へ旅を続けた。
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二見興玉神社の祭神は、猿田彦大神である。
↓ こちら二見興玉神社所蔵・猿田彦出現の掛軸
(大和岩雄著『神と人の古代学』より拝借)だが、
            猿田彦が手にする木は、いまならアザカに見える。           
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さて、4月に行った沖縄旅から時間がずいぶんと
 経ったが、頭の中の時系列ではまだ久高島にいる。
    那覇に1週間いて、途中の1泊を久高島で過ごしたが、  
  そこで知り合った女性がまた十字に関係する人だった。

大阪府箕面市で沖縄料理店を営むというMさん。
四大元素(火・風・水・土)に対応するハーブと塩
 をブレンドした「星のすぱいす」を発売したという。

そこで、つかの間、四大エレメントを意味する
十字(アザカ)の話で盛り上がったが、
不思議なご縁はそれだけでは終わらなかった…。







by utoutou | 2018-05-21 20:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 171 そして猿田彦大神

遥かに斎場御嶽を望む久高島西海岸。漁港の丘。
琉球王朝の最高神女・聞得大君の名を冠した「君泊」
にアカララキという名の御嶽(写真の左部)はある。

これまで何度も訪れたが、小雨まじりの悪天候に
見舞われたのは、おそらく初めてだった。また、
ここで、観光客用か地名表示板を見たのも初めてである。
「大君口(うぷちんぐち)・君泊(ちみんとぅまい)」と。
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港を背にして小さな石段を登り御嶽の内部へ。そう広くは
ないが、木々に囲まれた丸い空間は明らかに祭祀場だ。
御神体と向き合うと、空間の奥にその常緑低木は見える。
十字に葉が対生するアザカ(長実ボチョウジ)である。
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 拝所の前で振り向くと、手の届くところにまたアザカ。
「気性の荒い神、神名はなく門番」と島で伝わっていた
 アカララキだが、魂の転生・再生を司る女神の中の女神。
 イザイホーの祭では神女たちの籠る七ツ屋を守護した。
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この御嶽で、「十字」の葉の神木に会う意味は大きい。
十字はカジマヤー(風車)、そして四大元素を表すと、
語り部は言う。風と火と水と土。万物の根源的エレメント。
「十字」はカタカムナ族の象徴であり、族名でもあるか。

アカララキについては何度ここに書いたことだろう
かと思い、御嶽に座ったまま自らのブログを遡った。
それほど誰にも会うことのない御嶽だが、いつしか
 私にとって、久高の歴史時間を旅するメインテーマに。

以下、アカララキ関連のブログ記事。

久高島で蛇神を祀る('13年9月)
赤い実の神木('15年1月)
十字の霊力('15年1月)
つまりアマミキヨ('15年2月)
神託の続き('15年2月)
天御中主神('16年8月)
稚日女命の謎('17年1月)
琉球の玉('17年6月)
アカル姫の御嶽('17年7月)
角のある人の世('17年9月)
聖徳太子('17年9月)




雨が止んだ曇り空の下、借りた自転車を走らせる。
五穀発祥伝説の残る、東海岸の聖地・伊敷浜へ。
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浜への降り口にも、南城市が設置したらしい説明板。
〜モンパノキ、ミズガンピの群生に覆われ、真白な砂
が広がり自然の海浜植生が見られる。五穀の種子の
入った白い壺がニラーハナー(ニライカナイ)から
流れ着いた五穀発祥の地伝説の浜である。
『琉球国由来記』(1713年)には、琉球国王が行幸
の際、東方に向かって拝礼することが書かれている 〜
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  浜への道の右にある拝所(↓写真中央奥)でutoutou。
 その手前に青々とアザカの木が茂っていることに、
  初めて気がついた。まさにヒンプン(屏風)のよう。
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「十字」を成す葉、葉、葉…を見つめていて、ふと
猿田彦大神を想う。猿田彦は「申田彦」ではないかと…。
猿田彦についても、アザカの関連で書いたことがあった
かと改めて調べ、自分でも忘れかけた記事を見つけた。

久高島の聖なる種('15年1月)。

猿田彦が大和神話で、「岐(くなと)の神」や
「八衢(やちまた)の神」とされたのは、申田彦…
つまり、十字(沖縄方言でアザカ=アジマー=永遠)
 の霊力を発揮する猿田彦大神だからではないだろうか。

 語り部が、猿田彦大神を久高島の始祖神として
 繰り返し挙げていたのが、いまならそれも頷ける…。
その神はおそらくカタカムナ族の祖神でもあるのだ。



















by utoutou | 2018-05-14 06:57 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 170 アシア族の移動

倭国大乱、芦屋市の会下山遺跡、カタカムナ文献…。
琉球との関係を深掘りしたい事柄ばかりだが、ここは
 4月後半の沖縄旅で起こったことを記しておこうと思う。


那覇市牧志の安里川には元気に鯉のぼりが泳ぎ、
語り部には、立て続けに重要なヒントが舞い降りた。
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語り部に会うと、高師小僧(褐鉄鉱)の話になった。
会下山遺跡のある芦屋は、古くは「葦原」や「葦屋」
と表記したと言われるが、ただし、弥生時代の芦屋で、
スズ鉄を焼くたたら製鉄が行われたという記録はない。

酸素に弱い褐鉄鉱は酸化腐食するのが早いため、
遺物として残されることは稀というのがその理由だ。
やがて話は、遺物の残る愛知県の産鉄地へと流れた。

私は言った。
「高師小僧は、豊橋市で生ったスズ(鉄)ですけど、
愛知県の中西部である名古屋市近郊にも褐鉄鉱の地層が
 あるという研究記録があるそうですよ。芦屋で製鉄を
    していたかもしれない海人族と関係がありそうですね」  

「関係はあると思います」
続いて語り部は、質問に転じた。
「熱田神宮の奥宮とも言われる五社大名神社(春日井市)
には、どのような神が祀られていますか?」

すぐにググって、答える。
「祭神は尾張氏の祖神で…大碓尊、素戔男尊、日本武尊、
 菊理比売姫、あと天目一命(あめのまひとつのみこと)」

天目一命、亦名は天目一箇命、天御蔭命、明立天御蔭命。
琉球では火吹き男(ヒーフチャー)とも呼ばれる神。
鍛治神(カニマンガナシー)・製鉄の神である。

春日井市はまさに愛知県の南東部、御祭神から
考えて、海人族が製鉄を行なった可能性は大きい。

「それから、猿投神社というのもありますか?」
語り部が聞く。すぐに調べる。
「豊田市にあります。こちらも祭神は大碓尊ですね」

猿投神社には左鎌(ひだりがま)を奉納する神事がある。
日本武尊の双子の兄・大碓命が左利きだったので左鎌、
という由来。「鎌」とはたたら製鉄族の象徴なのだろう。


景行天皇の皇子である大碓命、小碓命。皇子たちの
名についた「碓」は、「臼」や「火鑽り臼」と同義。
それは「火の一族」の象徴だと、いまでは考える。
久高島の秘された御嶽・国淵山には石臼が祀られている。
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いっぽう、九頭龍伝説の残る戸隠神社奥社(長野県)
の神紋も猿投神社と同じ鎌。鎌卍(かままんじ)という。
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鎌卍の一片の形はタツノオトシゴにも見える。
つまり、鎌とは龍蛇神を表すかたちでもあるか。

「六甲山から尾張(愛知県)へ、また美濃(岐阜県)へ、
通って信濃(長野県)へ。あるいは近江(滋賀県)へ。
いくつかのルートは、六甲山のアシア(カタカムナ)族
が移動した(追いやられた)ルートと考えてよい?」
「はい。アシア族と名乗ったかどうかは分かりませんが」
「では、なんと名乗ったと…?」
「琉球を出た“7つ首の蛇“の船団、セーナナーですよ」

ああ、だから…。諏訪大社の神具は薙鎌と書いたこと
 があった。やはり薙鎌も龍蛇族を表す秘紋なのだろう。

私は既に確信していた。
スズ鉄製の開墾道具・薙鎌。薙=ナーガ=龍蛇族。
薙鎌は八岐大蛇から出た「草薙の剣」と同じ材質だ。

「では、鎌卍の卍とは、どんな意味なんでしょう?」
語り部は迷わずに言った。
「カタカムナ族の子孫。平十字(ひらとうじ)と同じです」

卍=十字。十字に葉の対生した木を見るならあの御嶽に
限ると、私は翌日ひとり久高島に渡ったのだった。


by utoutou | 2018-05-04 13:35 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)