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六甲山と瀬織津姫 168 カタカムナ再び

琉球から北上したアマミキヨは銅鐸の素材・青銅でなく、
葦の根に生るスズ(褐鉄鉱)で鉄を作ったのだろう。
ただ、植物由来であるスズはその痕跡を残さない。

そのため、いつしか
「豊葦原の瑞穂の国」は「豊葦原の稲穂の国」とされ、
葦の鉄の時代は、歴史から失われたと考える。
つまり、古代産鉄の歴史は、次のように変遷した。
スズ鉄の時代→青銅器の時代→砂鉄による鉄器の時代。


2000年前の高地性集落・会下山遺跡(兵庫県芦屋市)
には、集落の中央に泉のような水場があったという。
また、焦土抗(火炊き場の跡)が集落南部で見つかった。
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ジオラマを見ても分かる通り、
祭祀場が山の頂点(右の尾根)にあったという配置。
これを見て、「まさに葦のスズ鉄作りの村」と、感じた。
高地集落に立つ家と倉庫、そして、風と水と火と祭祀場。
鍛治とシャーマンは同じ穴のムジナ…と言われるのは、
鑪の火で片目を潰す男たちを守護したのが巫女だからだ。


祭祀場跡の遺物は、男根を象った石、首輪、高杯など。
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ところで、
↓この写真は会下山遺跡のパンフレットから拝借した。
六甲山から大阪湾を一望する絶景地に祭祀場があった。
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↓こちら、会下山遺跡から約2㎞西、金鳥山からの眺望。
画像を較べると、両地点がほぼ同じ標高だと分かるが、
上下2枚の写真から、私はある1枚の地図を連想した。
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その地図とは ↓こちら。昭和24年、金鳥山の山中で、
平十字と名乗る男からカタカムナ文献を見せられたと
いう楢崎皐月氏が描いた周辺地図(「相似象学」誌)だが、
金鳥山の東に「ドロカエシ池」「炉跡の山」がある。
地図を見る限り、炉跡の山は、会下山遺跡の地点だ。
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「炉跡の山」について、「相似象学」誌は記す(要約)。
〜(平十字氏は)笹の葉の動くのを道しるべに
行けば、お前さんの喜ぶものが見つかると言い、その
通りに(楢崎らが)行くと、八ヶ所の古代の炉跡から、
たくさんの遺物を収集した。その際、近くにある倉庫跡を
測量すると、メートル法に従っているので驚いた。〜


いっぽう、「ドロカエシの池」については…(要約)。
☆池の上では、小鳥が90度方向を急展開する。
☆その直下を掘ると、錬金らしき黒い玉が出てきた。
☆池からは、ブクブクとメタンガスが噴き出ている。
☆金鳥山とは「カネトリ山」の意ではなかったか?


2地点に関する記述は、金鳥山周辺に何らかの金鉱
資源があったことを伺わせるが、ちなみに会下山遺跡
が発見されたのは昭和31年、楢崎が六甲山を調査した
とき、会下山遺跡の発掘はまだ始まっていなかった。


さて、数日前に沖縄に来たので、昨日は語り部に
そんな六甲山にまつわる話をして地図を見せると、
会下山遺跡はカタカムナ族の集落だろうと、言う。

「会下山というより、金鳥山を含む一帯がカタカムナ人
の集落だったようです。ドロカエシ池のような沼が
 点々とあり、近くに野ダタラの炉も点在して視えます。
野ダタラは沖縄のジール(地炉)と似ていて、そこでは
鉄と一緒に土器も作っていたようですね。ところで、
〝たらの芽〟とスズ鉄とは、どういう関係がありますか?」
「たらの芽ですか。天ぷらなら最近食べましたけど…笑」

たらの芽のようなモノが土器に山盛りに入っている
 のが視えるという。それが周辺を物語るヒントらしい。
つづく…。






by utoutou | 2018-04-21 10:05 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 167 会下山遺跡

このところ銅鐸に興味津々な私に、語り部は辛辣だ。
語り部というか、語り部の交信する神が辛辣に言う。
「銅鐸ばかり追って、いったい何がしたいのか? 」と。

「アマミキヨの末裔は銅鐸と関係ないとでも?」
尋ねるも、語り部は同じ意見を繰り返すばかり。
「最近は(書く)方向がズレているように思います」

そんな会話を電話で交わしたのは3日前だったが、
折りしも3ヶ月ぶりの関西出張があり、前乗りして
会下山(えげのやま)遺跡(芦屋市三条町)を訪れた。


阪急・芦屋川駅から高級住宅街を登ること20分。
山手中学の西、芦屋市聖苑の横に遺跡の入口を見つけた。
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「会下山遺跡コース入口」と丁寧に看板がかかっている。
さらに丁寧なことに、フェンスのドアは施錠式である。
〜イノシシが出るので扉を開けたら、すぐ閉めて下さい〜
ここから徒歩10分で遺跡に辿り着くらしいが、つまり
遺跡は動物園の檻状態。ひとりで進む気になれず、断念。
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かわりに地図で【国指定 会下山遺跡】を学習。
〜約2000年前の弥生時代の高地性集落です。遺跡
は会下山全体に広がっており、縦穴式住居や祭祀場、
火たき場跡、掘跡、墓跡などが発掘されています。
標高約200mの山頂付近にある祭場跡は眺望が大変
よく、遠くの地域まで見渡すことができます。〜
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迷わずUターンしたのは、遺跡入口の近くに芦屋市の
文化財整理事務所(月・木が見学可)があるのを、
道すがら確認していたからだ。それでよしとしようと…。
    中に入るとそこは遺物の宝庫。しかも学芸員のご案内付き。      
↓会下山遺跡模型。左上が登山道入口、右の頂点が祭祀場。
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高地性集落の名の通り、南は大阪湾、紀伊山地までを
一望、北東は摂津地方北部の平野までを見渡せる。
その役割は、見張り場、逃げ城、集会、交易、集落、
畑作農耕、交通拠点、祭場など諸説あるというが、
祭祀場の石組やガラス玉など様々な遺物に目を引かれる。
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弥生時代中期〜後期(紀元前2〜紀元1)の遺跡だが、
想像以上に広範囲な交流・交易を示す遺物が多い。
丹後・近江・河内地域の土器片、青銅製漢式の鏃と弓器。
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こちらの事務所は、会下山遺跡だけでなく芦屋市の
文化財すべてを管理しており、所内は見どころも満載。
会下山遺跡から南東へ2㎞ほど、古代の打出浜にあたる
打出小槌古墳(5世紀末)出土の人物埴輪(レプリカ)も。
顔に入れ墨、ふんどし、被葬者は南方海人族の首長か!?
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会下山遺跡から銅鐸は出ていないが、銅鐸関連の展示も。
時代とともに銅鐸は大型に。黒色が神戸市桜ヶ丘銅鐸。
手前の薄い黒色のが淡路島松帆から出土した銅鐸。
最小の銅鐸は、芦屋市月若遺跡から出土した小銅鐸。
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ところで、
芦屋市の歴史は約2万年前の後期旧石器時代に遡る。
くだんの打出小槌古墳からはナイフ型石器が出土した。
氷河期の終わりで瀬戸内海はまだなく、芦屋は内陸部
だったというから、「芦屋=葦屋」の語源もうなづける。

ここでようやく語り部を通して届いたメッセージを解した。
「銅鐸ばかり追って、いったい何がしたいのか? 」
その問いかけの意味が、うっすら見えてくる。

銅鐸(青銅)の時代でなく、注目すべきはスズ鉄の時代。
原初のアマミキヨは、褐鉄鉱を探索した古代製鉄民だと、
芦屋こそが、「豊葦原の瑞穂の国」だということなのか…。











by utoutou | 2018-04-14 08:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 166 天御影命の「影」(改)

 綱敷天満神社(神戸市東灘区)の成り立ちは難しい。
 地名の「御影」が、天御影命を祖神とする一族の存在
を感じさせるが、祭神に天御影命の神名は見えない。

 祭神は菅原道真大神、別雷大神、倉稲魂大神、天穂日命。

ただし、社殿によれば、代々司祭したのは天津彦根命
 の子孫というから、その子とされる天御影命は当てはまる
 が、ではなぜ祀られないのかを考えるとスッキリしない。

また繰り返しになるけれども、神社略記「歴史」には、
 御影の地名の起こりについての以下の一文がある。

〜(ここ摂津国荏原郡)覚美郷(かがみごう)御影の
地名の起こりは、古代この辺りに銅細工に関わる
技術者集団「鏡作部(かがみつくりべ)がいたと推測
されることに由来します。社宝の古い神体には、銅塊
が祀られていた。〜 

鏡作部の祖神は、天照大神の天の岩戸伝説に登場する
八咫鏡を造った石凝姥神(いしこりどめ)だが、
 銅鏡と天御影命の関係もまた、浅からぬものがある。

御之御影神を主祭神に祀る御上神社(滋賀県野洲三上)
の鎮座する三上山付近からは、銅鐸や銅鏡などの出土
品が多く、鍛治の一族か集団がいたと考えられている。
六甲山麓・桜ヶ丘から銅鐸が出た御影と似た歴史がある。


いっぽう、まさに「御影の森」という地名が、
綱敷天神神社から3.5㎞ほど西にあり、こちらこそは
天御影命に所縁があるのではないかとされる神社がある。

五毛天神・河内國魂神社(神戸市灘区国玉通り)だ。
阪急王子公園駅から1㎞ほど登ったところに鎮座する。
祭神は大己貴命(大国主命)、少彦名命、菅原道真公。
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この地は古代、凡河内(おうしかわち)氏の居住地と
言われるが、その豪族とは天御影命の子孫という。
この神社の森が「御影の森」と呼ばれる理由がそこだ。
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ところで、
『法隆寺伽藍縁起并流記資材帖』(747年)には、  
摂津国雄伴郡宇治郷に、法隆寺が所有する
宇奈五岳(うなごのおか)があったと記されているが、
そこが現在の会下山(えげやま、神戸市兵庫区会下山町)
付近という(芦屋市の会下山遺跡と同名だが読みが違う)。
また、宇奈五岳の西限が凡河内寺山とも記されている
ことから、凡河内氏は、その会下山付近にも居住して、
 一族の氏寺も建立していたと考えられる。


いっぽう、河内國魂神社の由緒は、少し歯切れが悪い。
〜一説には摂津国造である凡河内忌寸の祖・天御影命
を祀っていたのであろうと言われますが、その間の
消息も長い年月を経た現在、詳しくはわかりません。〜

東から西へ、綱島天満神社、河内國魂神社、会下山。
凡河内氏が居住していたらしい3ヶ所を繋ぐと10㎞以上。
だが、そこで絶大な勢力を張っていたという確証はない。


綱敷天満神社、河内国魂神社にしても、天御影命を
祖とする一族の繁栄を匂わせているものの、共通する
祭神は菅原道真で、象徴の牛像がある(↓河内国魂神社)
こと以外、こちらも詳細がはっきりしないのが悩ましい。
六甲山で、天御影命の「影」が薄いのはなぜなのだろう…。
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by utoutou | 2018-04-06 14:27 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 165 スサノオの御霊

綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)の北に位置する
桜ヶ丘(神岡)からは銅鐸14個と銅戈7本が出たという。
何度か六甲山に行き神社や磐座を歩いたが、銅鐸出土地
に足を伸ばしていなかったのは、ちょっと残念…。

さて、六甲山麓における銅鐸出土地を知るなかで、
祭祀的な、あるいはアマミキヨ的な視点から、興味
を抱いたのは、銅鐸の模様や埋蔵場所の比較だった。

例えば、桜ヶ丘銅鐸の出土地から坊主山(376m)を
挟み約2kmの東には渦が森という銅鐸出土地があるが、
それぞれの銅鐸に刻まれた模様はかなり違っている。
桜ヶ丘は「人や家」など、渦が森は全面に「渦」が並ぶ。

反対に、出土地の標高は240mと同じ。坊主山の
東西に埋蔵されていた2種類の銅鐸は、何を語るのか。
私には、高地性集落の「輪」があったように思えるが、
では、集落(国々)を束ねた首長は誰だったのか?
など、興味は尽きない。


渦が森には、本住吉神社の奥宮に参ったことがある。
地元のSさんのご案内で、磐座ツアーの途中で参拝した。
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この本住吉神社の奥宮からは瀬戸内海を見下ろせる。
実際の出土地は少し低地になるらしいが、眺望は良好。
桜ヶ丘銅鐸も同じような眺望の集落に埋まっていたのか?
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いつだったか語り部が言っていた話が甦る。
「六甲山では、海人族が各地に集落をつくっていたと、
またそれぞれに祭祀を司った神女がいたと思います」
つまり、それが瀬織津姫の原像なのだろうと。

吉野裕氏もその著書『風土記世界と鉄王伝説』で、 
そうした巫女たちを「鉄のシャーマン」と呼んだ。

〜倭王卑弥呼が大きな祭祀権を持ち得たのは、彼女が
たんに有能な高級巫女であったというようなこと以上に、
何よりもまず鉄の生産の支配力を左右しうる巫女、
いわば〈鉄のシャーマン〉であったことと深く関係
しているからだろう…(中略)…彼女の巫術のおかげで
鉄(あるいは銅)もよく作ることが出来…その面影は
神功皇后伝説のなかに比較的によく生かされており、 〜

神功皇后の系譜を遡れば、息長水依姫に行きつくが、
さらに遡れば、天御影命、天津彦根命の名が浮かぶ。
天御影命の亦名は天目一箇神、まさに鍛治神なのである。

そして、綱敷天満神社の祭祀を司ったのも、
天津彦根命の代々の子孫と、由緒に記されている。
〜社伝に依りますと「茨城国造となられた天道根命が
祝詞して、竜神岡の天神山に祖神・天穂日命と別雷神
を斎き祀られたのに始まり、天津彦根命に伝えられ、
子孫代々鎮祭す。」とあります。〜

天御影命の神名は、地名・御影の由来かもしれない。


そんな天御御影命の話をしていると、語り部が言った。
「綱敷天満神社の綱打神事に使うという大綱を巻いた
鳥居ですけど、私にはヤマタノオロチにしか見えない」
「六甲山の各地にいた海人族が祀っていた神だと?」
「はい、そうです…」
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天御影命がその霊力を継いだ「神の名はスサノオ
だと、語り部はこれまでも何度か言っていたものだが、
確かに8本の矢が刺さる大綱は、八岐大蛇に見える。
六甲山の海人族を束ねたのはスサノオの御霊(みたま)?



by utoutou | 2018-03-26 20:24 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 164 銅鐸を崇める神社

綱敷天満神社(灘区御影)の社殿はどこを向いている?
阪急電車の御影駅からgoogle mapを頼りに南西方向
に歩いて ↓ この裏門というか、裏参道に着いたので、
六甲山を向いているのは分かったが、さてピンポイントは?
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鳥居を潜って境内に入ると、拝殿と本殿の横に出た。
写真右端にチラッと写るコンクリートは、高架道路である。
社殿の向こうを流れる石屋川の上に掛かっているようだ。
その石屋川は六甲・坊主山を源流として南へと流れている。
すると社殿は、高架道路と並行して建っていることになる。
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改めて地図で、高架道路と神社の配置を確認すると、
やはり社殿は、銅鐸出土地の桜ヶ丘を向いている。
私たちが参拝すると銅鐸のクニを拝していることになる。
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由緒にも、「銅」と縁の深い神社だと記されていた。
【歴史】
〜覚美鄕(かがみのさと)(記・和名抄)御影の起こり
は、古代この辺りに銅細工に関わる技術者集団
「鏡作部」がいたと推測されることに由来します。
→「社宝の古い御神体には銅塊が祀られていた」〜

また【鎮座地】は、中世までは山の上だったという。
〜御影町北部の山麓は往古、竜神岡と呼ばれ、その中
の天神山(現・御影山手)の荘厳な祭壇地に太古は祭祀
されており、この地域一帯の総鎮守でありました。〜

それにしても、この地に「鏡作部」の集落があったとは。
往古の鏡は、銅にスズや鉛などを加えて作られたという。
鏡作部の祖神は八咫鏡を造った石凝姥神(いしこりどめ)、
紀伊国一宮・日前神宮・国懸神宮の祭神である。

しみじみと、
語り部のあのときの見立ては正しかったのだと振り返る。
琉球を出た古代海人族は、紀伊から六甲へ移動したと思う
と語り部が言い、そのことをブログに書いたのは1年半前。

それを「ヒミコの鏡」など一連の記事にしたのだったが、
当時、石凝姥神を祖神とする一族と、一族の六甲山に
おける居住地を、探し出すことはできなかった。


いまに残る神事にも、その人々の信仰が偲ばれる。
「綱打神事(つなうちしんじ)」は↓こちらの鳥居が舞台。
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鳥居をズームアップすると ↓このような仕立て。
注連柱を巻く大綱は龍、刺した8本の矢は八色雷公を表す。
 右端は龍神の頭、左端は尻尾…すると、これは八岐大蛇か。  
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由緒から、【綱打神事】を以下に要約してみる。

☆この神事は、別雷大神縁起に伝わるもの。
 ☆天道根命の旧記に基き、後鳥羽院の時代より開始した。
☆注連柱全体が祓具であり、諸々の罪穢れを祓い浄める。
☆ここを潜り抜ければ、1年間無病息災に暮らせる。
☆現在でも、氏子・崇敬者の手で毎年続けられている。
☆「かみなり神事」とも呼ばれ、1月8、9日に斉行する。


綱打神事を伝える縁起に残る別雷大神とは、
賀茂別雷大神(かもいかづちおおかみ)のことである。
その歴史ある神事が、天道根神命の旧記に基づいていた。

神事に名を残す別雷大神は、賀茂氏の祖神である。
そして天道根命は、紀氏の祖神である。両氏の
痕跡が、銅鐸出土地のわずか1.5㎞南に残っていたとは…。


by utoutou | 2018-03-19 13:31 | 瀬織津姫

六甲山と瀬織津姫 163 役小角

阪神神戸線・御影駅で降りてから徒歩10分ほど。
綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)を訪れたのは、
もはや旧聞に属するが、関西に滞在していた1月中旬。

あの頃は、聖徳太子ゆかりの「斑鳩の里(記事はこちら)」
について書いている最中だったが、頭の中にはいつも、
聖徳太子は奈良時代の呪者・役小角や空海と共に在った。

時代や身分は違えど、いずれも歴史上の「著名人」。
六甲山に縁故の深い人物というところが共通点だ。

昨年の記事「海神の砦」にも書いたことだったが、
空海(774〜835年)が建立した六甲山・鷲林寺の
地には、役小角(634〜701年)も訪れていたという。

役小角は、甲山の南の目神山で弁財天を感得し、
 六甲修験道を開基、奈良・天川近くの洞川に住む
 四鬼氏を唐櫃に移住させて、六甲山を守護(掌握)した。
 唐櫃の多聞寺は、六甲比命神社周辺を奥の院としている。


いっぽう、
こちら綱敷天満神社には、聖徳太子が四天王寺を建立
した際、礎石用に御影石を切り出したとの由緒がある。
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聖徳太子・役行者・空海、海神系と言われるこの聖人
たちは、揃いも揃いなぜ六甲山で女神を感得したのか。
神功皇后が廣田神社に瀬織津姫を祀ったという事績
よりもはるか昔の縄文・弥生の時代、この六甲山には
一体どんな人々が生活し、どんな祭祀を営んでいたのか。

その祭祀の中心に、おそらく原初の瀬織津姫がいる
…と、実はかねてから考えていたのだった。


綱敷天満神社の祭神は、略記パンフレットによれば、
菅原道真大神、別雷大神、倉稲魂大神、天穂日命。

菅原道真との所縁は、次のように記されている(要約)。
☆菅公は、讃岐国守として下向された折に参拝した。
☆同じく天穂日命の子孫でこの地を治める山背王に会う。
☆太宰府に左遷のみぎりにも立ち寄ったが、
山背王は石の上に綱を敷き菅公を迎えたと伝わる。
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本殿の北東に、天神社という小祠があった。
祭神は別雷大神、聖徳太子。神徳は厄除開運・鬼門方除。
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いっぽう、境内の北西には草壁稲荷大明神が鎮座。
「草壁」は「日下部」に通じ、丹後や但馬の国では鉱山開発、
主に銅の採鉱により、抜きん出た豪族となったようだ。
日下部氏は古来、ここ摂津西部でも活躍していたのか。
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草壁稲荷大明神の横には、松尾社が鎮座している。
祭神は、大山咋命、金山彦命、住吉神。
金山彦命が祀られる以上、ここには鉱脈があったようだ。
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さらなる手掛かりを求め、スマホで地図を開いてみる。
神社から北へ、1.5kmほど石屋川沿いに遡ると、
神戸市灘区桜ヶ丘町に着くが、なんと六甲山の南斜面
にあたるその地から、銅鐸が出土しているのだった。

銅鐸…そうだったのか。
銅採掘、日下部氏、御影駅と連想して思い至ったのは、
やはり御影駅の最寄りに鎮座する弓弦羽神社である。
祭神は熊野大神、そのシンボルは八咫烏…。

八咫烏に化身したのは賀茂角身命を始祖とする一族。
そして、賀茂氏は役小角の出自である。
また、賀茂氏は銅鐸祭祀者だったという説がある。
役小角と六甲山は、銅鐸を通じても関連していたのか。









by utoutou | 2018-03-13 10:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 162 続・琉球弁財天

那覇の善興寺に祀られていたという三面六臂の仏像。
真言宗護国寺の末寺・善興寺は冊封使の宿泊所であり
迎賓館だった天使館(那覇市東町)の近くにあった。

そのためか、「仏像は弁財天」とする册封使による
善興寺の目撃録がいくつも残っている。(※参考 :
真喜志遥子著『史料に見る琉球の弁財天信仰』)


「琉球の弁財天は六臂で、日と月を持っている」
と記したのは、1683年に来琉して『使琉球雑録』
  などを残した冊封使の汪楫(おうしゅう)。 

ちなみに、同じ尚貞王の時代の辞書『混効験集』
序文にも「我朝は神国、御本地は弁財天なり」と。

この弁財天の呼称が、「天孫神」とされた最初
は、冊封使・周煌(しゅうこう、1756年に来琉)
の時代のようで、「善興寺の仏堂には、不動王並び
に、三面六臂の天孫神像がある」との記録がある。

李鼎元 (りていげん、1800年に来琉)の記録も、
「更に神あり、三面六臂にして黒きこと漆のごとし。
従官曰く、これ国を開きし天孫氏の神なり」である。


そして、最終的には、江戸の作家・大田南畝が
琉球年代記』(1832年)に↓想像図を掲せて以来、
 善興寺「三面六臂の天孫神」は通説となるに至った。
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はたして実際に、天孫神は崇められていたのか?
しかし、この画像を見た語り部はバッサリと言った。
「三面六臂の弁財天とか、天孫神は聞いたことが
 ないですね。これは三宝荒神だと思います」と。

また、こんなことも言った。
「沖縄では荒神をフーチヌカミ(鞴の神)と呼びます。
冊封使の話に〝太陽と月を持つ弁財天〟とありましたが、
赤い太陽と満月を手にする荒神を見たこともあります。
鍛冶にとっても、火と水は必要不可欠ですから…」

さて、弁財天がはたして三宝荒神なのかについて、
どう確認すればよいのかと、つらつらと何日か
考えていたものだったが、遂に同書の別項(27ページ)
に、なんと語り部と同意見のくだりを発見した。
 
曰く、「荒神というは、天孫神のことなり」。
 (以下、内容要約)
 ☆吉月になると、民間では託女(おこで、神女)を
呼んで、「荒神ばらいの祈祷」をする。
☆アマミキヨ、シネりキヨ、あまつかみ、八幡宮、
天神大自在天神を拝し、琵琶を弾き法華経を唱える。

くだんの真喜志氏も、論文に次のように記している。
〜弁財天と荒神が習合しながら、天孫神に祀り上げ
られていったことが推測できると思う。〜

思えば、天神大自在天神こと菅原道真公の子孫と
称する一族が戦前まで東町にいたと、語り部は言って
 いたが、その人々は鍛冶屋(カニマン)だったのか…。

沖縄のカニマンは、決まって三宝荒神を崇めていた。


語り部が那覇のある家で見たことがあるという
「三宝荒神」の掛軸は、このような構図だったらしい。
沖縄図像研究会のHPより拝借した「鍛治神」。
首里生まれの日本画家・柳光観の画「フーチヌ神」)
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こちらも、柳光観の画による鍛治神の掛軸。
柳氏は大正元(1912)年生まれだが、戦前戦後に
 わたって多くの日本画や神像を描いたという。
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こちらは、首里観音堂(臨済宗慈眼院)の三宝荒神。
そのHPには、次のような解説が載っている。
〜仏・法・僧を守護するという神。俗に、不浄を
嫌うことから火の神にあて、カマドの神とされる 〜
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さて、三宝荒神について書いていると、奈良時代
の呪術者・役小角のことが、しきりと思い出された。
葛城山(金剛山)や大峯山中で祈祷した際、艮の方角
から出現したのが、まさにこの三宝荒神だったと伝わる。
いっぽう、六甲山の目神山では弁財天を感得したという。

琉球の鍛冶(カニマン)が三宝荒神を崇めたのは、
琉球王朝以来に限ったことではないと、御先(うさち、
上古)カニマンの存在を信じる私は考えるが、もしや
修験道の開祖・役小角も鉱脈の採鉱者だったのでは?

 というわけで、久々に話は六甲山に戻っていく気配…。




by utoutou | 2018-03-04 20:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 161 琉球弁財天

京都では真言宗総本山・東寺(南区九条町)へも。
ちょうど国宝・五重塔の初層内部が公開中だった。
九条通りの南大門から境内へ入った。
正面は金堂、その奥に講堂と食堂が一直線に並ぶ。
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境内入って右(東)、五重塔と八島社の鳥居が
ミスマッチする景観には、いつもながら惚れ惚れする。
祭神は空海が崇めた地主神とも大己貴神とも言われる。
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五重塔の内部を拝観後、大師堂近くの三面大黒堂へ。
実はこちらが、この日、東寺を訪れた主な目的だった。
三面大黒天は拝観できないというが、ともかく目指す。

三面大黒天の説明板が立っていた。要約すると…。
大黒天(中央、大地の神)、毘沙門天(左、財宝の神)、
弁財天(右、インドでは河の神)という三体の天神
が合体したものが三面大黒天で、お大師様の作である。
我々の誓願を満たして、無上の大功徳の霊験がある。

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三面大黒堂に足が向いたのは、ある「事件」が発端だ。
関西への移動中にネット検索していて、琉球の
弁財天についての「新説」が拡散していると知った。

曰く、琉球王朝時代の聞得大君御殿には、三面六臂の
弁財天を描いた掛軸が祀られ、聞得大君が崇めていた。
それは三面大黒天とも考えられるという説もある、と。

当ブログ記事「弁財天は聞得大君の先祖」にリンクも
貼られており、「これは事件」と思わずにいられない。
天御中主神と七人の日巫女」との2本の関連記事とは
 別のところで、琉球弁財天が一人歩きを始めた模様。


さて、東寺の秘仏・三面大黒天はこんなお姿である。
大師堂でお札を求めたが、弁財天はよく見えない。
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写真集『東寺の天部像 東寺宝物館』から拝借した
三面大黒天立像(江戸時代)。(解説を以下要約)。
☆本来、(三面)大黒堂に祀られていた。
☆秘仏で六十年に一度ご開帳される。
☆大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した「出世大黒」。
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いっぽう、いわゆる「琉球弁財天」として拡散している
女神の像は下のイラスト。 ↓ 三面六臂で、太陽と月、
蛇と宝珠を手にしている。題名は『天孫神の像』。

イラストは『江戸期琉球物資料集覧』より拝借。
でも閲覧可能だが、原典は江戸の戯曲家・大田南畝の著
『琉球年代記』(天保3、1832年)付録「琉球雑話」。
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ただし、大田南畝は、この「天孫神」が聞得大君御殿
に祀られていたとは記していない。いっぽう↑解説文
には「善興寺」と、具体的な寺名も見える。

(以下要約)
☆善興寺に天孫神なる三面六臂の女神像があった。
☆これは天神という神、シネリキヨとアマミキヨの
長女クンクンなり。土俗あやまりて、これを弁財天
と云うのであれば、像は図のごとし。

「土俗あやまりて」の意味は、天神=天孫神
=弁財天という「通説」を誤りだと言っているのか。
いずれにしろ、確かに三面だが、大黒天ではなさそう。
 
三面六臂の弁財天を崇める琉球の「弁財天信仰」
については、冊封使による見聞録がいくつかあり、
南畝は、『東西洋考』『中山伝言録』『琉球国志略』
を参考にして、天孫神の記事を書いたようだと、
『史料に見る琉球の弁財天信仰(南島史話42号)』
(真喜志遥子・著)は記している。が、こちらでも、
聞得大君御殿に祀られていたとの記述は見当たらない。

ネットで「天孫神」の神名と画像だけが拡散され、
「聞得大君御殿に三面六臂の弁財天が祀られていた」と
の新説が自然発生、やがて一人歩きするに至ったものか。
というのが、「琉球弁財天」を追跡してみての結論…。


実は勢いで(笑)、大阪・四天王寺も再訪した。
三面大黒天を本尊として祀る三面大黒堂がある。
こちら社務所で見た木彫りのレプリカ三面大黒天。
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さて、関西から戻り、「琉球弁財天」こと「天孫神」
を思い出していると、語り部経由でメッセージがきた。

「天孫神でなく天祖神を追いなさいということです」
「天祖神…ですか?」
「沖縄では、大神(うふがみ)とも呼ばれる神です。
ヤマトの天照大神のモデルになった太陽神でもある」

また、ややこしい話になってきた。私は聞いた。
「では、天孫神とはどんな神様だったんでしょう?
左手に太陽、右手に月を持っている女神って…」

語り部も聞いた。
「善興寺は何宗のお寺で、どこにありましたか?」
「真言宗ですね。天使館(冊封使の宿泊所)の近く。
現在の那覇市西消防署の南側にあたりますかね」
「それなら、冊封使の記録しかないのも分かりますね。
天孫神とは、三面大黒天と荒神と弁財天が習合した姿
 だと思います。あの辺りは、荒神信仰が盛んでした。
  私が見た扁額の三宝荒神は太陽と月を持ってましたよ」

つづく…。









by utoutou | 2018-02-25 14:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 160 神泉苑の善女龍王

関西へ出張したので、神泉苑(京都府中央区)へ。
 千年の都・平安京、その最古の史跡。
桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(794年)した際、
造営されたという天皇のための広大な庭園(禁苑)。
縮小され、往時の十六分の一の広さになっているとか。

完成したのは800年頃、二条城・大内裏に南接。
太古からこの地にあったという大池(神泉)は、
法成就池(ほうじょうじゅいけ)と、朱の太鼓橋は
法成橋(ほうじょうばし)と、命名されている。

どちらも、空海が「祈雨の法力」を成就させて
三日三晩、雨を降らせ干魃を救ったという、天長元年
(824年)の有名な事績「天長の祈雨」に由来する。
東寺の空海vs.西寺の守敏の「法力争い」とも呼ばれる。

「天長の祈雨(雨乞い)」で空海が勧請したのは、
北天竺の北にある無熱池(むねつち、現在のチベットの
マナサロワール湖に比定される)いたという善女竜王。
(以下、栞より抜粋)
〜善女龍王は大師の懇志に感じて池中より大蛇の頭上
に金色八寸の御姿を現し、慈雲たちまちにして起こり、
甘雨の降ることはあたかも天瓢の水を注ぐが如く、
旱天(ひでり)の災はたちどころに解消したという 〜



女性ふたりが、法成橋をゆっくりと渡って来た。
願いごとを強く念じて、南(左)から橋を渡り、
そのまま善女竜王社(右)に詣ると願いが叶うという。
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善女龍王社は、法成就池に突き出るように鎮座。
ちなみに池の南にある本堂の御本尊は、聖観音菩薩。
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そう言えば、
「善女竜王とは龍宮乙姫ですね」と、語り部は言った。
室生寺の龍穴に住む善女龍王について話していたときに。

はたして異名同体の女神なのかと、そそくさと
ググってみると、まず、善女龍王とは清龍権現と出た。

空海が阿闍梨と出会った唐の長安・青龍寺の守護神で、
空海の帰国に伴い来臨してから、「清瀧」権現となった。
飛来してからは水神信仰と習合して、空海の祈雨修法
における祭神となったという伝承もあるようだ。


清瀧権現は、私の住む東京八王子の高尾山にも祀られる
婆加羅龍王(海神)の三女という。高尾山では「青龍」
権現と書くが、まさに善女龍王は海神の娘・龍宮乙姫。
高尾山ロープウェイ駅名・清滝の由来は「清瀧」らしい。
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善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女。
さらに、清瀧権現の化身は如意輪観音というから、
女神の系譜の混沌とした正統を見る思いがする。

↓恵方社に祀られる歳徳神(としとくじん)もまた
調べると、婆加羅龍王の第三王女、つまり善女龍王。
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では、
善女龍王と弁財天の関係はと↓弁天社の前で栞を開く。
「元はインドの大河の神・サラスバティ」とあった。

いっぽう、清瀧権現は市杵島姫であるという説もある。
それならば、善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女=
 如意輪観音=歳徳神=弁財天=市杵島姫(瀬織津姫)。
記紀の成立と天照大神の誕生から百年を経て、
抹消された瀬織津姫はかくも隠され多神化していた。
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空海の「天長の祈雨」には、ひとつの逸話が潜む。
善女龍王は、龍の頭に乗って池から現れただけでなく、
持てる龍王の宝珠を空海に授けたのだという。
(空海による『御遺告』の注釈書、『御遺告釈疑抄』)

なぜ宝珠のくだりは秘せられたのか。
善女龍王(龍宮乙姫)の宝珠を空海が得た824年、
龍宮から浦島太郎が帰還したと『元享釈書』等は記す。

遡って、浦島太郎が龍宮へ行った雄略22(478)年、
丹後の豊受大神は伊勢外宮に遷座したというが、
海部の伝承において、豊受大神=天御中主神である。

いっぽう、空海が唐から持ち帰った北辰信仰において、
北辰=龍神=北極星=天御中主神。善女龍王が空海に
 授けた宝珠は、海神族の魂の甦りを意味していた。
時勢がそれを許さなかったのだろうと思う。

by utoutou | 2018-02-18 09:58 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 159 空海の宇賀弁財天

「宇賀弁財天は、どこに祀られていますか?」
空海の出自を巡るあれこれを考えていたとき、
語り部から、そんな電話がきた。
「えーと、各地のお寺に祀られているでしょうけど…」

彼の脳内には、宇賀弁財天の像が現れているらしい。
頭頂に鳥居を戴き、蛇に巻かれた翁が顔を出して
いる弁財天。あの翁が宇賀神らしいが、語り部は、
「その宇賀神とは、どんな神?」と、問いかけている。


電話を切ってから、
「こちらが宇賀弁財天ですよね」と、画像をメールした。
興福寺(奈良市)の三重塔に祀られているという
「窪弁財天 坐像」をネット上から探し出して…。
※興福寺HPの国宝画像は転載不可ということで、
興福寺国宝特別公開展('11年)のポスターより拝借。
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窪弁財天は、何年か前、語り部に那覇市の首里末吉の
拝所に掛かる「弁財天と7人の日巫女」の掛軸を教えて
もらったときから、よく似た弁財天として記憶していた。


首里の掛軸は、聞得大君御殿にあったと伝わる掛軸と
同じ絵柄で、おそらく現存する最後の一幅と言われる。
あのとき、語り部は言っていた。
「弁財天の頭上の男神は、天御中主神に視えます」と。
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そんなわけで、興福寺の窪弁財天像を思い出した
 のだったが、この弁財天は空海にも所縁が深い。

興福寺のHPに以下の解説があった(要約)。
☆南円堂建立のとき、空海が完成を祈り天河弁財天
に参籠した際に、宇賀弁財天を感得した。
☆そこで、興福寺に窪弁財天として勧請した。
☆毎年7月7日に特別公開され、
法要が行われる。


ところで、興福寺は、室生寺とも所縁ある寺である。
室生寺の草創に関わったのは、興福寺の僧侶だった。
そして、室生寺創建のきっかけは、皇太子の山部親王
(後の桓武天皇)の病気平癒のための祈願だった。
桓武天皇は、後の淳和天皇の父…。

ここのあたりから、何かザワザワと胸が騒いできた。
室生寺と言えば、龍穴、龍神、空海の如意宝珠…。
弁財天が持つ如意宝珠は「龍より出る」と言われる。
どうやら胸騒ぎの元は、その龍神にあるらしい。

そう言えば、この時代はひどい干魃が続き、
空海は国家鎮護のため雨乞いの祈祷を繰り返したと
いうが、ことに有名なのは、淳和天皇の勅命で行った
神泉苑での祈雨である。ときは天長2年(824)年、
空海は北インドの善女竜王を勧請して国中を喜ばせた。

824年…。それは浦島太郎が龍宮から帰還した年。
この一致するタイミングは…そうだったかのか。
空海の雨乞いの逸話は、龍神の甦りを暗示している?
そして、龍神とは天御中主神のことではなかったか…。


by utoutou | 2018-02-09 18:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)