カテゴリ:瀬織津姫( 203 )

六甲山と瀬織津姫 204 ウプチマリヤーの船

久高島にあった謎の旧家・ウプチマリヤーの件は、
年を超え、松が取れたころに無事解決した。
結論から言えば、恥ずかしながら「灯台下暗し」。
久高島を発つ朝、私はその家に立ち寄っていたのだった。
ただし、屋号を知らなかった。

場所は、語り部の視た国軸から実際は少し南に位置
ハンチャアタイ(神の畑)の最寄りにその家はある。


いまは無人になっているけれども、
門中(男系親族)のNさんが授かり管理している。
彼女に「黒い船を祀り直したので見ていって」と
言われ、外間殿に参った後、足を運んでいた。
語り部が「豊玉姫たちの船」とか「太陽の船」と
呼ぶ御神体は、新しい深海色の壁を背に映えていた。
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屋号・ウプチマリヤー。その意味は不明。
神壇の上部に、「黒い船」は恭しく祀られている。
私はいつも、「黒い船の家」と呼んで通っていた。
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ウプチマリヤーを巡る「事の顛末」を振り返ると…。
年末、久高島の帰りに訪れた那覇で、語り部が
「黒い船」の話をきっかけとして喫茶店で語って
くれたことが、私の迷走(?)の始まりだった。

「久高島の外間ノロ家と、イチャリグァ家の間に、
ふたつの古い香炉だけが祀られている家がある。
ウプチマリヤーという屋号で、近くに国軸があった。
彼らが、ユーラシアから粟の種子を持って帰還した
一族だと思います。黒い船はその歴史を伝えている」


私が島のNさんに聞くと、ややあって↓写真貼付
の返信がやって来た。ただし、屋号が違っていた。
「その場所には確かにふたつの香炉が祀られている
けど、ウイシュマリヤーという家ですよ」
と、彼女は言った。
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では、ウプチマリヤーはどこにあるのだろうか?
数日後、「ウプ(=大)」を省き「チマリヤー」
として探り始めると、門中の歴史が分かってきた。
以下要約。

☆チマリヤーは海人(うみんちゅ)で、王府時代
は国王に仕え、唐船(とうしん)の船乗りだった。
☆チマリヤー、東(アガリ)チマリヤーなど
数軒あるが、すべて同じ門中に属している。
☆チマリヤーの門中では、ふたつの香炉を祀ったが、
うちひとつは、船霊(ふなだま)の香炉である。

さて、
年が明け、本島在住のGさんから連絡をもらった。
比嘉康雄著『神々の古層』で調べてくれたようだ。
「ウプチマリヤーはハンチャアタイの南にありますね」
その場所こそ、私のいつも行く黒い船の家だった。

さっそくNさんに聞く。
「黒い船の家は、ウプチマリヤーでしたっけ?」
「そうですよ。あら、知らなかったの?(笑)」

では、あの国軸の近くのウイシュヤー家とは?
昨日になってNさんはこう伝えてきた。
「ウイシュヤーはウプチマリヤーの子孫のようです」
なるほど、語り部が島軸に元家のウプチマリヤー
を視たのには、そんな理由があったようだ。

そしてもうひとつ、Nさんはこうも言った。
「黒い船は、唐船の模型と言われていますけど、
もっと古い意味があるのかもしれませんね。
戦争の頃は隠していたそうですから…」

太平洋戦争前夜、天皇家の歴史より古い時代や
天照大御神以外の神について語ることはタブーに
なった…というのは、沖縄でもよく聞く話。
テーラーガーミとは、太陽の男神のことである。


※チマリヤーについては、次の論文などを参照。
☆「記録されたイザイホー」(86ページ)
☆「久高島村落祭祀組織について」(175ページ)
















by utoutou | 2019-01-14 19:11 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 203 粟(アワ)の祭り

「粟…アワですか…」
なぜ粟の収穫祭りのとき、久高島の神女たちが、
島軸(中心)の回りを7回も時計回りに回ったのか?
という疑問の主だった部分は、私の場合「7回回る」
だったが、語り部によれば、「粟」が重要という。

「ホツマツタエにある“アワの歌”でも分かるように、
アとワは天地のエネルギーを表していると思います。
粟のお祭りのとき、神女たちが島軸を回ったのは、
うさち(上古)の頃からの儀礼の名残りだったのでは。
粟、アワ、阿波、淡路島…語源は同じかもしれません」


粟がそれほど深い話につながるのかと驚くばかり。  
粟の収穫祭はもう、いや栽培すら行われていないし、
島の人に聞いても分かる人はいないだろうというが、
約40年前までは、かたちだけであれ祭りは続いていた。
(写真は本文と関係のない、島に自生するススキ)
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英祖王の時代からあったという地割(じーわい)と
呼ばれる畑地共有制度も、様変わりして市民農園に。
集落の北には、南城市が推進する植物工場が建設中だ。
 そのため大型ダンプが港と現場をしきりに往来する。
そんな平成の終わりに知ることになった、「粟」…。
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電話を通して、ひとしきり「粟の収穫祭」の話に。
私も思うままに、「七」について言った。

「7はシュメールの聖数。久高島でもそうでしたよね。
7回回る、七つ橋、七ツ屋、七つ屋取(ヤードゥイ)
それから、 七つの川泉、七つの首の蛇…。久々に
思い出しましたよ。あと玉城のミントングスクに残る
創世神話では七日七晩の後、アマミキヨが天降りした。
右回りは、古事記の創世神話のイザナミを思わせます。
粟の収穫祭、確かになんだか深い意味がありそうな…」

いっぽう、語り部の話にも、「七」は出てきた。
「大城(ウフグスク)のウメおばあが言ってました。
粟には餅粟、赤粟など、七つの種子があったんだよと。
あと、お米の前は粟が主食だったという伝えもあった」

米の前の主食は粟だった…ウメおばあの話を聞いて、
久々に、アマミキヨ伝承の聖地・玉城を思い出した。

そして、「七つの首の蛇」に視えると語り部が言った
あの大前殿(うふめーのとぅん)に祀られる「稲穂」
の絵も同時に甦ってくる。そのとき、思ったものだ。


もしや、これまで稲穂とばかり思っていたあの絵は、
粟だったのかも? 稲穂は隣に祀られているのだから。
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weblio辞書の「粟」のページから拝借した画像。
玉城の大前殿の絵と、かなり似ているように思う。
大前殿を建立したのは、ミントン門中の神女という。
いっぽう、玉城は琉球稲作の発祥地と伝わるが、
粟など五穀の発祥地でもあったのかもしれない。
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実は、「七つの首の蛇」こと海人七氏族とは、
粟の種子を携えて琉球に渡来した古代人だったのか。
そして、彼ら海人族を乗せたのは久高島に遺る黒い船?

知られざる旧家・ウプチマリヤーはそれを伝えていた?













by utoutou | 2019-01-11 13:49 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 202 島軸(中心)を探せ

「ウプチマリヤー…国軸・島軸…(を探せ)」
と、語り部は言った。ウブチマリヤーという家には
 人はいないようだけれども二つの香炉が残っていると。


思えば久高島を経つ朝、島の北端・カベール岬へ
日の出を見に行った。御嶽廻りの総まとめという
つもりだったが、あのときは想像だにしない展開に。
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集落内にあったらしい謎の旧家・ウプチマリヤー。
場所は「外間ノロ家から外間殿へ行く道の角あたり」
ということだが、カベール岬に行った帰り、私は
集落に戻って外間ノロ家(ヌン殿内)と外間殿で参拝
したので、まさに語り部の言う道を歩いていたのだった。
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それにしても、ウプチマリヤー。難問だ。
久高島の方言は難しく、屋号の意味は分からない。
島に住む知人に聞いても、「分からない」と言う。
「その近くにウィッシュヤーはあるけど、そこも
もう空き家なので、尋ねることもできない」と。


その場所だけは、東京に戻ってから確認ができた。
『神々の古層 女が男を守るクニ 久高島の年中行事』
(比嘉康雄著)で、刊行('67年)当時の集落図を見る。
それを拝借して、語り部の話をダブらせてみた。

外間ノロ家から外間殿(地図の右上)への道を赤く、
また、語り部の言う「角あたり」を青丸で加工した。
ちょうど、青丸の左上にひとつ空いた区画がある。
そこが、謎の旧家・ウプチマリヤーなのだろうか。
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※集落図は、久高島の祭祀組織系統を説明する
ための資料として掲載・図示されていたものです。


いっぽう、
語り部の言う「島軸・国軸」は、見つかった。
※『神々の原郷 久高島 (下巻)』
〜シマジュク シマの空間的中心という認識がある。
外間殿の下方にある地名。〜
おおむね ↑地図上の青丸のあたりと思われた。


シマジュク、シマジク、島軸…ウプチマリヤーと、
口走りながら、片っ端から「比嘉本」を見ていくと、
↓遂に1枚の写真を見つけた。次の説明がある。
〜新タムトゥのシマジクまわり
(粟の収穫儀礼のときにおこなわれる 1976年)〜

写真を島の人に送り見てもらうと、確かに語り部
 の言う「角」付近を西側から撮ったものだろうと。
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※『神々の古層 女が男を守るクニ 久高島の年中行事』
(比嘉康雄著)より。




「粟の収穫儀礼」の項には、次の一文もあった。
〜 新タムトゥ(60歳以上の神女)のシマジクまわり。
外間殿の下方にシマジクという場所がある。ここは
 島の中心といわれていて、以前は大石があったという。
第一日目の朝ガミ終了後、新タムトゥたちは、先輩
タムトゥのリードで、このシマジクを七回回る。〜

神女たち、シマジク、粟の収穫祭、七回回る…?

ウプチマリヤーなる旧家についてはまだ分からないが、
語り部にとりあえず調べたことを伝えると、言った。
「粟…が、今回の謎を解く鍵になるでしょうね」
「アワ……ですか」












by utoutou | 2019-01-08 21:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 201 海に沈んだ龍宮城

猿田彦の率いる一族はメソポタミアから来た…。
つまり久高島に渡来した古代海人族は、シュメール
から来たと、語り部は言っているわけだが、
私がその話を聞いたのは1度や2度のことではない。
ただ、私自身が書き残すことを躊躇っていただけだ。

シュメール(スメル)から来たという歴史ならば、
この戦後GHQによって絶版・焚書となったと言われる
伊予国一宮大山祇神社の三島敦雄元宮司による著書
天孫人種六千年史の研究」にも記されている。
が、琉球古伝によれば、天孫氏王朝は17802年続いた。
 つまり、氷河期とその後の時代をも挟んで断続的に…。

その間、人々は動いた。古代琉球からメソポタミアへ、
さらにシュメールで都を成した後、再び日の本の琉球へ。
冒頭、語り部が「シュメールから来た」と言うのは、
先祖の元へ里帰りした人々についての伝承なのである。

そもそも一族が、大陸の西を目指した理由は、
氷河期が終わって大洪水が起き、古陸が沈没した
ための神託によるエクソダス(脱出)だったようだ。

語り部に聞いた古伝を、「東国三社 6 ノアの方舟
に書いたが、読み返すと我ながら腰が引けている。
けれども、神女の語り継いだ古伝には整合性がある。


ちなみに、久高島を沖縄本島に向け出帆するとき、
右に見えるイラブーガマの上部が、スベーラの御嶽。
ユーウラヌ浜と同様、嶽名がシュメールを思わせる。
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さて、帰り際、那覇で会った語り部に、
久高島の御嶽廻りから三角点に至る様子を伝えると、
すぐさまこんな反応があった。

「三角点の山に、赤いマニ玉が視えます。それは、
龍神が頭に乗せて久高島へと運んで来たものですね。
その龍神は、龍宮、というより海底宮殿にいました」
「海底宮殿って、どこのですか?」
「斎場御嶽と久高島の、ちょうど合い中の場所です」
「あったのですか?」
「そこが後の猿田彦となる龍神(海神)の住処だった」

「すると、海底宮殿というか、
その竜宮城は、氷河期以前にはあったけど沈没した?
そして、その話が後に、豊玉姫・玉依姫のヤマト神話
の原型になっていったというわけですね?」
「はい」

語り部と出会った11年前、その海にふたりの美しい
姫が立つのを見る…と言っていたことを思い出す。


朝、たまたま高速船の上から海を撮っていた。
久高島と、斎場御嶽近くの知念岬との距離は5.3㎞。
そこにいまも龍宮こと海底宮殿が沈んでいるのか?
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龍神が頭に乗せていたという龍宮の珠(ぬぶし玉)。
私はようやくゴールへの最終コーナーに入ったのか。
恐る恐る、聞いた。
「あの琉球版ノアの方舟の伝説を考えれば、
龍神が運んで来たというマニ玉は、ムー大陸から来た
太陽神の化身と考えられる…わけですよね?」
「はい、赤琥珀のように鮮やかで透明な赤い玉です」

それが長い長い歳月を経て、何らかの理由で、
海人族によって六甲山へと運ばれたのだろうか。

2時間ほどお茶を飲みながら話し、これで今年
最後の沖縄旅をめでたくお仕舞いにできる、と
  思ったとき、語り部に新たなビジョンが舞い降りた。 

「久高島の集落のなかで、もう人が住んでいなくて、
ふたつの香炉が残されている家はどこですか?」
もちろん私に問われても、まったく分からない。

「外間ノロ家から外間殿に行く道の途中の、
イチャリ(※屋号)家の手前の角あたり…。
あ、屋号はウプチマリヤーという家のようです」
「その家がどうしたのですか…?」
「うさち(=上古)の島軸・国軸を授かっていた家。
 あの豊玉姫たちの船とも関係があるようです」


島の某家に祀られている ↓黒い船(ワニ船)。
そうか、あの船はやはり太陽を運ぶ船だったのか…。 
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ウプチマリヤー。
初めて聞くその名を、うわ言のように呟いて帰京した。

























by utoutou | 2019-01-06 13:01 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 200 久高島の御嶽廻り

新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します…というところで、
まさに願うような想いで、旧年末の久高島を振り返る。

この島で祈りを通すには、順序を間違えては駄目…
と教えてくれた神人がいた。まず自分を守護する神々
を悟り、その神々の御嶽を廻って挨拶(御願立て)する
ことが神の島でのシキタリなのだと。10年前に出会った
その人にはもう会えないが、12月初旬、久高島三角点
まで辿り着けずに諦めたとき、ふとあの話を思い出した。


↓スマホ画像は、11:20とあのときの時刻を示していた。
三角点探しを諦めてジャングルから抜け出てきたとき。
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いったん東京へ帰って2週間後、また思った。
アマミキヨ追跡は抜差しならない窮地に陥った(笑)と。
神々への挨拶廻りを怠ったまま、この状態で年を越す
のは、さすがにできそうにない…気がしたものだ。
そこで12月19日、久高島を再訪して自分なりの御嶽廻り
を敢行した。まずは、徳仁港から桟橋を歩いてフシマへ。
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上の写真を撮った位置で南へ振り向くとそこがフシマ。
御嶽名の表記には諸説あるが、火の島か不死鳥の島?
白いお墓? は、他所の人が建てていったという謎の物件。
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島の「真南(まふぇー)のにある御嶽」ことフシマは、
龍宮神が坐す島との伝承。写真左の岩にイラブーもいた。
私をこの御嶽へと導いたのは、アカララキ(御嶽)だ。
龍宮神(猿田彦)とアカララキ(瀬織津姫)は一対神
というのが、御嶽廻りで得た実感。というより確信。

と、このとき、時刻は15:43。安座真港を15:30に
 出た白い高速船が徳仁港に入って来た(写真中央)。
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御嶽廻りの2ヶ所目は、上の写真右に写る灯台の下
のイラブーガマ。イラブー(エラブ海蛇)は龍宮神
に見立てられ、いつしか久高島は「神の島」とされた。
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御嶽廻りの3ヶ所目は、
イラブーガマ近くのスベーラの御嶽(スベーラキ)。
古代ヤマトでは天皇の尊顔を「龍顔」と呼んだという。
龍神、イラブー、スメラ、スベーラ…の御嶽。
語り部は、この御嶽に天皇の就任式・大嘗祭の原型を
視ると、何年か前に言っていたものだった。
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4ヶ所目は私が龍宮と呼ぶ洞穴。10mほど地下へ
降りて20mほど進むと、イビ(拝所)前に出る。
「龍宮」については何度か書いたが↓こちらに詳細が。
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5ヶ所目は、中の御嶽だったが御嶽空間の撮影は失念。
中の御嶽に至った経緯は↓こちらの過去ログに。
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御嶽廻りの最終地点は、他でもない久高島の三角点。
中の御嶽が、龍神の坐す御嶽を巡拝する終着点と
これまで感じていたが、ひよっとするとこの場所か?
一般に、国土地理院の三角点と最高点は違うものと
いうが、島のおじいに聞くと、「そこが島でいちばん
高いところ。昔、高潮のときに皆んなで避難した」と。
拝所があったという話もあるが、見つからなかった。
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そうこうした後、久高島に1泊。翌日は、
いま米軍新基地建設で揺れる名護市辺野古に1泊。
3日目の帰路、那覇空港に行く前に語り部に会った。
しばらく話していると、こんなことを言った。

「赤い球を頭に載せた龍神が動いているのが視えます。
海からアカララキに上がり、島の三角点に進んで行く。
アカララキの前浜は、なんという名前でしたか?」

あーっと、思わず大声を上げそうになった。
「そうでした、ユーウラヌ浜!」
その語源は、「ユーフラテス浜」と呼んだ名残りだろう
と、語り部はかねがね語っていた。

龍宮神こと猿田彦、そして猿田彦の率いるワニ族は、
メソポタミアから渡来したということになる。
御嶽廻りのご利益とは、その気づきだったか…。







by utoutou | 2019-01-03 17:15 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 199 猿田彦の十字路

1年が終わろうとしているが、珠は見つからない。
ワニ族の出自を聞かれても、確たる私見はなかった。
と思った先日、久高島を再訪することにした。

「今年最後の沖縄」と銘打った11月下旬の旅でも、
久高島に1泊したが、実は目的が果たせていなかった。
島の十字路を探したが、どうにも辿り着けなかった。
そこは、古代海人族の崇めた最古の御嶽と考えている。

現在、島の三角点(島の最高となる標高17.52m)。
国土地理院が置いたこの土地の基準点のである。
 平べったい島の真ん中。この戦後まで見晴らしよく、
そこから本島や、本島西北部に浮かぶ伊江島も見渡せ、
古には、神女たちが鏡で連絡を取り合ったという。
 いまは島の中央の深いジャングルに埋もれている。


前回は辿り着けなかったが、再挑戦したかった。
14時の船で久高島に渡り、御嶽周りの参拝を済ませて
 から三角点を探すべく、島の森の中心へと分け入った。
17時ごろ。西の空は夕暮れ色だったが、まだ動ける。
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三角点の近くにあった御嶽を語れる人はもういない。
そこには歴史が語らない神の魂が鎮まっているはずで、
その神こそは、「六甲山と瀬織津姫」を解く鍵だ。


神の名は龍宮(琉球)の大地主神・猿田彦大神。
ヤマトでは、伊勢大神であり、豊受大神であり、
天照大神であり、住吉大神であり、椎根津彦であり、
海神であり、綿津見神であり、 宇迦之御魂であり、
何より豊玉彦であり、八大龍王と同じ神徳の神である。
そしてその大神は琉球の珠を頭上に戴いているはずだ。


これまで、瀬織津姫(久高島ではアカララキ)に
ついて何度も書いてきたが、猿田彦の一対神である
その女神は天疎る向津姫であり、天(海)神ではない。
本来の龍神だからこそ、猿田彦はヤマトでは疎まれ、
記紀では、天の八街で皇祖を道案内する神とされた。
けれども、本来は天の八街・地の八街に坐す大神だ。
と考えつつ、ほぼホフク前進して(笑)、森を進んだ。
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そして、とうとう到着。着いてみると当然のこと
そこには広くはないけれども、平らな空間があり、
三角点の標石と、国土地理院の標識が置かれていた。
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三角点のジャングルから這い出ると、目の先に月。
もうすぐ平成最後に見上げることになる満月と出会う。
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今年もご訪問いただきありがとうございました。
皆さま、よいお年をお迎えください。
猿田彦の項、来年へとつづく…。


ちなみに、これまで、六甲山と
猿田彦については、以下のブログで綴っている。

六甲山と瀬織津姫 50 猿田彦大神

六甲山と瀬織津姫 121 猿田彦が隠れている

六甲山と瀬織津姫 122 猿田彦の子午線

六甲山と瀬織津姫 128 猿田彦の島

六甲山と瀬織津姫 171 そして猿田彦大神




by utoutou | 2018-12-31 18:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(8)

六甲山と瀬織津姫 198 葦舟は琉球産?

沖縄から帰った後、語り部とこんな会話をした。
伊礼原遺跡の土層図が示すマングローブを見て、
褐鉄鉱の製鉄が行われたかと、考えていたときのこと。
語り部は言った。
「湿地帯のマングローブ林の近くに、他の木も茂って
いるように視えますが、何ですかそれは… ?」
「…… ??」

質問は、なおも続いた。
サキシマスノウの木は、船の材料になりますか?」
その実がウルトラマンの顔に似ていると言われる
サキシマスノウの木は硬く、船の櫂に用いられる。
「確かに、葦舟の櫂として使われたのかも…」
「そうですか、葦とサキシマスノウで葦舟ができる」
「なるほど…。琉球の島々でも、古代の人たちに
 よって葦船が作られた可能性があるわけですね」

古代、舟の原型とされる葦船は、世界中で作られた。
古代船は、葦舟→丸木舟→アウトリガー→カヌー
→双胴船へと発展した。※茂在寅男氏の著書より。
いっぽう、古事記の国産み神話では、
イザナミ・イザナギは最初にできた水蛭子(ひるこ)
を葦舟に乗せてオノゴロ島から流してしまう。

イザナミ・イザナギ、葦舟は、古代産鉄族の象徴と
私は考えているが、そこにサキシマスノウが加わる
と、神話舞台は琉球の島々ということになるか?
少なくとも神託は、そう宣っているかのようだ。


北谷町役場の考古展示館で撮った画像を改めて見る。
弥生時代の琉球とヤマトの貝交易を図示した、
「貝の道の模式図」。※熊本大学、木下尚子教授の作。
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沖縄列島にサンゴ礁ができた2千数百年前、
つまり弥生時代からヤマトとのゴホウラやイモガイ
貝交易は始まった。それは北部九州の弥生人が貝殻を
貴重品として求めたからと言われるが、もっと以前、
縄文時代の南島人が関わった大陸との交易に関しては、
考古学が絡むせいか、なかなか語られることがない。


ましてや琉球の海人族が、大陸との交易で活躍した
であろうことなどは…。
また、北谷町の伊礼原遺跡から出土の曽畑式土器
(※県博「縄文と沖縄」で撮影)が、
ユーラシア大陸北部に分布した櫛目文土器を生んだ
遼河文明の影響を受けているこということなども…。
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こちら、
曽畑貝塚(熊本県宇土市)から出土した曽畑式土器。
曽畑式土器のなかでも古手という。(※県博で撮影)
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櫛目文土器の影響を受けたという曽畑式土器。
そのなかに、沖縄県北谷町と熊本県宇土市から出土
した2種類があるという点には、興味は尽きない。

なぜなら、伊礼原遺跡がら出土した曽畑式土器の大半
には、白い粒(貝やサンゴや砂)が混入しており、
 いっぽう熊本産の特徴である滑石入りはごく僅かという。
 大陸の影響を受けた土器の作り手が伊礼原にいたのだ。

その人々とは誰か…?
「大陸と交易して曽畑式土器を作ったのは熊襲では?」
昨日、私が聞いてみると、語り部は言った。
「いやあ、ワニ族かもしれませんよ」

ヤマトの古代豪族・和邇(過去ログはこちら)。
『契丹古伝』(浜名寛祐・編訳)は、その国は
現在の河南省開封府陳留県にあったと記している。

その場所を、城郭都市研究会様サイトから拝借した
地図↓で見ると、四角で囲まれた「老丘」に当たる。

「ワニは夏・殷の時代には大侯国だったが、漢代は
史書から消え、東の海に去った」とも『契丹古伝』に
ある。ちなみに、櫛目文土器の興った遼河は、
地図右上の遼東半島付近を河口にして渤海に流れ出る。
黄河の河口とは、意外にそう遠くない。
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「曽畑式土器とワニ族の関係はなきにしもあらず」
と、話し合ったが、語り部はなおも言った。
「では、ワニ族は元々どこにいたんでしょうね?」

by utoutou | 2018-12-18 19:26 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 197 伊礼原遺跡の「櫛」

北谷町の展示館から那覇へ戻ると語り部が言った。
「櫛は見ませんでしたか? 伊礼原を流れる
ウーチヌカー(※カー=川)の近くには、
御先(うさち、上古)時代に集落があったと思います」
しまった…土器ばかりに気が向いてしまい、
それ以外の遺物にはあまり注目しないできたが、  
語り部はおそらく、櫛が謎解きの鍵と読んでいるのだ。


伊礼原遺跡(沖縄県北谷町)の航空写真(赤丸)。
黄丸(私の加工)は観光地アメリカンビレッジの位置。
(※県立博物館・考古学ニュース('09年)より拝借)
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さて、話は続き…、私は聞いた。
「伊礼原遺跡から出た櫛が大事なんでしたか?」
「そうですね、出て来ます…」
神託か霊視か、ともかく彼は櫛のイメージを視ている。
出て来ます…とはそのこてで、彼自身も知らない
古の記憶が、何かの拍子にこんなふうに引き出され、
私はそのイメージをヒントにこれまでも追跡してきた
ので、今回も「櫛」は重要なアイテムなのだろうと思う。


その ↓ 櫛(※画像は考古学ニュースから拝借)。
「小川の川底から出土した木製櫛」。いまから
約2500年前の縄文晩期に作られたという縦櫛で、
長さ8㎝、最大幅4.2㎝。素材はなんと八重山黒檀。

つまり、この地で製作された櫛ということになるか。
広報ちゃたん」によれば、一枚板に先端の尖った
道具で両面から削る刻歯式(こくししき)技法による。
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それにしても、ちよっと驚いた。
八重山黒檀は木質が重く硬いことで有名な木。
現代でも琉球三線などの高級素材として知られる。
それを伊礼原の人たちは、何を用いて削ったのか?
道具についての研究結果は出ていないようだが、
縄文時代の利器ならば、黒曜石の断片なのだろうか。
では、その石を鋭利に削った道具は何だったのか?


1週間の沖縄旅行から東京に帰ってからも気にかかり、
くだんの「考古学ニュース」を溜息まじりに見ていたが、
思わぬところで目を見張った。これかもしれない…。
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↑ 伊礼原遺跡(低湿地区)の土壌図(左)。
いちばん下層に、「マングローブ」と記されている。

時代区分は、縄文時代早期のそのまた下層。
この伊礼原に人が住み始めたのは、約7000年前で、
縄文時代早期にあたるが、その前の時代区分というと、
縄文草創期(1万5千年前〜1万2千年前)にあたる。
無人の時代、伊礼原の低湿地はマングローブ林だった…。

沖縄各地で、いつも不思議に思っていたことがある。
マングローブ林のある川や湿地帯や海浜の土壌は、
あるいは水は、なぜ赤錆色をしているのだろうか?
その答えがもし、マングローブ(沖縄では主にヒルギ)
の茎に生成した鉄バクテリアが原因だったとしたら…?

それはやがて褐鉄鉱の塊となり(12年で固まるという)
原始的な産鉄の素材となり得るのではないか?

「豊葦原の瑞穂の国」について、これまで何度か書き、
瑞穂とは稲穂ではなく、褐鉄鉱を茎に生成させる
水草であるという説を引いてきたが、葦などの瑞穂に
マングローブが含まれるかもしれないとは考えなかった。

もしマングローブの茎に褐鉄鉱が生成したならば、
それを野だたらで焼くことで、可鍛鉄は得られる。
と同時に、その焼成の過程でベンガラも得られる。

大胆な仮説とは思ったが、語り部は静かに言った。
「そうですね、たとえば天女の伝説が残っている
銘刈川は、大昔はマングローブ林だったと思います」
天女は産鉄族の守護神…と、各地の産鉄地では言われる。














by utoutou | 2018-12-08 18:58 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 196 「縄文と沖縄」へ

  沖縄へ来た。那覇市おもろまちの県立博物館へ。
「縄文と沖縄」がちょうど開催中。
テーマは「火焔式土器のシンボリズムとヒスイの道」
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タイトル通り、展示会の目玉は火焔式土器。そして
クマヤー洞窟から出た新潟県糸魚川産のヒスイや、
平安山遺跡から出た青森県亀ケ岡遺跡の土器が主役
と思うが、3階の展示場に着いて係の人に聞いたのは、
もちろん…。
「曽畑式土器とサキタリ洞から出た5500年前
の赤色顔料は、どちらに展示されていますか?」
女性は会場内を探した後、戻って案内してくれた。
あまり話題にはなっていないのか?…縄文ベンガラ。



そして、「南島のシンボリズム」コーナー内
「海を超えた縄文人・交流のはじまり」を見る。

右・曽畑式土器(北谷町の伊礼原遺跡から出土)
左・曽畑式土器(熊本県宇土市から出土)
何種類かの幾何学模様が刻まれているのが特徴。
いずれも、ベンガラと同じ縄文前期にできた土器。
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もうひとつの狙い…赤色顔料の付いた2点の遺物
(縄文前期、約5500年前)も近くに並んでいた。

右・この11月に「沖縄最古」と発表された
  赤色顔料が付着した砂岩礫(南城市サキタリ洞)。
左・サキタリ洞の砂岩礫の調査に伴って分析され
赤色顔料が付着していると判明した、曽畑式土器
北谷町伊礼原E遺跡
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今回の発表では、ベンガラはいずれも九州から
伝わったものというが、沖縄産の可能性はないのか?
伊礼原遺跡で出土している曽畑式土器のほとんど
は、伊礼原で製作されたものとされているにも
かかわらず、一辺倒に「すべて九州産」というのが、
どうにも腑に落ちない感じがしていたのだ…。


ところで、曽畑式土器が九州産か沖縄産かは、
胎土に滑石が含まれるかどうかで判断するという。
滑石は主に長崎県で産出される鉱物で、沖縄には
分布していない。よって少なくとも伊礼原から出土
した曽畑式土器には、滑石は含まれていない。
とすれば、今回ベンガラが発見された曽畑式土器が、
滑石が含まれていないものならば、ベンガラが
地元産である可能性はグッと高くなる…。


そこで、車で40分ほどの北谷町役場へ向かう。
役場の敷地内に、町が管理する遺物展示室がある。
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伊礼原遺跡は北谷町役場から至近の場所にある。
※地図は沖縄タイムス記事から拝借。
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途中、北谷町の担当部署に電話で確認していたところ、
社会教育課文化係の方が展示室を開き解説してくれた。
「県博に貸し出し中」の曽畑式土器は右奥に。
同じく手前の「貸し出し中」は室川下層式土器。
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係の方の説明が始まったところで、こちらからも聞く。
「ベンガラが付着していた曽畑式土器に、
滑石は含まれていたんでしょうか?」
「それが、含まれていなかったんです」
「では、それは伊礼原で作られた土器なのですか?」
「とは一概には言えなくて…。今回分析したのは破片
ですから、土器全体を分析しないことには…」
「なるほど…」

次に、ベンガラについても聞く。
「この地でベンガラが採れた可能性はありますか?」
「それは、あります。伊礼原遺跡は古代の海岸線に近い
低湿地にありましたから、鉄バクテリアからできる
ベンガラが採れた可能性は十分にあります」
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伊礼原でベンガラこと赤色顔料が使用された可能性は、
この低湿地で鉄バクテリアを生む褐鉄鉱が成った可能性に、
さらに言えば、「朱の一族」がいた可能性に繋がる…。


by utoutou | 2018-12-02 13:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 195 弊立神宮への道

沖縄本島のサキタリ洞(南城市)から出土した
砂岩に付着していたベンガラ(赤色顔料)と、
本島の伊礼原E遺跡(北谷村)から以前に出土した
曽畑式土器の装飾ベンガラは、いずれも県内最古、
約5500年前(縄文前期)のものと判明した。

その時代に、九州の土器やイヌの飼育など
九州的な文化が沖縄に波及したと考えられるので、
ベンガラもまた影響を受けた可能性があるとの見解。
つまり、当時から九州と沖縄には繋がりがあったと。
九州では、13000年前(縄文草創期)から
ベンガラが使用されていたという。

曽畑式土器は、九州150ケ所の遺跡から出土するが、
明治期に初めて発表された土器片が、曽畑遺跡
(宇土市岩古曽町曽畑)からだったためそう呼ばれる。

遺跡のある、宇土市。
'16年4月に起きた熊本地震で被災した宇土市役所の
建物を写したニュース映像は記憶に新しいが、実は昨年の
今ごろ、弊立神宮(熊本県上益城郡山都町)へ参った際、
まだ復興工事の続く付近の道路をレンタカーで走った。


弊立神宮(熊本県上益城郡山都町)には、空港から
1時間半ほどで着いた。石段を登り真正面に社殿を仰ぐ。
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参拝は去年の12月3日、ちょうど落葉の季節だった。
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弊立神宮への道は、空港からまず国道445号線を
上益城郡矢部町まで南下したのだったと思うが、
途中、御船町という町がある。↓ 町HPの地図を拝借。
なんとその町名の歴史は深く、日本書紀に由来している。
景行天皇が熊襲平定の折に着岸したのが御船川という。

こちら益城郡に熊襲が住んでいたとは、意味深である。
ちなみに御船町を西へ辿ると、宇土市の名も見える。
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さて、縄文前期、沖縄に伝播したかもしれない
 曽畑式土器の熊本県内分布図(70ヶ所)を見ると… 
44番(中央の赤丸)は、上益城郡御船町辺田見、
45番(右の赤丸)は、上益城郡矢部町大字城平、
49番と50番(左の赤丸)は曽畑遺跡(宇土市)。
ちょうど弊立神宮へのアクセス・ポイントと重なる。
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(「熊本県文化財調査報告 曽畑」('88年)より拝借。
 赤丸・青丸は、当方の加工です)



さらに興味深いのは、地図内45番の矢部町にある
遺跡が、緑川流域遺跡と命名されていることだ。
幣立神宮は緑川の源流域(16㎞東)に鎮座している。

境内の由緒板にも、このように記されていた。
〜神殿に落ちる雨は東西の海に注いで地球を包む
ので、高天原 日の宮の伝承を持つ 〜
「東西の海」のうち、西の海に繋がっているのが緑川だ。
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弊立神宮の歴史は15000年という。
御祭神は神漏岐命・神漏美命、天御中主神、天照大神。
南島海人族の崇めた「日の宮」ということになるか。
スサノオの魂」に書いたが、神漏岐命・神漏美命は、
沖縄伝承では、超古代の人々が崇めた最古の一対神。
摂社・水神社に立つと、鳥居の龍神が目に飛び込んだ。
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ところで、時代は大きく降って。
4世紀の頃、「曽畑式土器の出土地に熊襲がいた」
というが、その関係を「深掘り」してみたい。

熊襲は縄文時代から大陸と列島を往来したという。
曽畑式土器は、大陸の影響を受けているが、その
作り手は熊襲だった可能性があるのではないか…。

ところで、上の地図で、青丸で囲んだ51番は、
轟遺跡(宇土市宮ノ荘轟)で、ここから出土した
轟式土器は曽畑式土器より古く約6000年前のもの。

轟式土器の研究は昭和時代になって進んだようで、
いまでは曽畑式土器に先行する土器とされている。
「プロト(最初の)曽畑式」なる言葉もある。

轟式土器の出土地・日勝山遺跡(鹿児島県伊佐市)
は、熊襲の本拠とされる熊本県南部、球磨川
の流れる球磨・人吉地方に隣接する。

上の地図を掲載する「熊本県文化財調査報告 曽畑」
によれば、轟式土器は阿多貝塚(鹿児島県金峰町)
からも出土したが、ここも隼人(熊襲)の出拠だ。

轟式土器を作った熊襲が、大陸の櫛目文土器を
作る人々の影響を受け、曽畑式土器が生まれた
と、考えられるのではないだろうか。
とすれば、琉球の曽畑式土器もまた同様に…?



by utoutou | 2018-11-26 13:34 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)