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カテゴリ:瀬織津姫( 225 )

六甲山と瀬織津姫 226 空海の井戸

荒神発祥の地という笠山荒神社(笠山坐荒神社)。
最終的には初めにくぐった鳥居まで戻ったのだが、
実はこちらは、神社の裏参道口にあたるらしい。
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表の鳥居はこちら。本殿の西200mの山麓にある。
左に隣接して閼伽井不動(あかいふどう)が鎮る。
心身を清めてからの荒神参拝が正順とここで知った。
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実は荒神社から参道を下る途中、予感はあった。
ひょっとしてこれは逆コース? と、足元の景観に。
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鳥居横の案内板に、空海が行を修めた池であると。
〜 閼伽井不動 由来 〜(要約)
☆鷲峯山笠山荒神の閼伽井の池は、古来の霊場。
☆弘法大師・空海は遣唐使留学からの帰朝(806年)
後、高野山の開創を志して、2度この地で水行した。
☆閼伽井不動を祀ったのち、荒神を高野山に勧請した。

〜 古ながらの表参道より閼伽井不動明王参りを経て、
笠山荒神社への参拝がお勧めである。〜 とも。
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googleナビで走り、着いたのが裏参道だったとは。
気を取り直してともかく、閼伽井不動へ厳かに進む。
石灯籠沿いに歩くと、風格のある石標に迎えられる。
山頂とは違い、修験的な空気に少し身が引き締まる。
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池、太鼓橋、不動明王、その右に滝(日章之瀧)。
空海は、この滝で21日間の水行を修めたという。
 滝に寄り添うように祀られる、弁財天社(写真右端)。
不動明王と弁財天が、閼伽井を両サイドから護る図。
さらに右方向へ、黒龍社と白龍社が並び鎮座している。
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2度の水行の後、空海はここに閼伽井不動明王を祀る
ことができたので高野山に荒神を勧請・開山を成した。
日本第一笠山荒神と共に在る、閼伽井の偉大なる霊験。
 閼伽とは梵語で「貴賓や仏に供えるもの(広辞苑)」。
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思いがけずこの地で知った、高野山開創の物語。
 改めて、笠山荒神・表山道口の由緒板に向き合った。
〜 往古の鷲峯山は人々が入山することのない神奈備
と仰がれており、笠の郷は神浅茅原といわれ、
倭笠縫邑の神蹟伝承地である(前後略)〜
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へぇ、そうだったのか…と、しばし呆然。
神浅茅原(かむあさぢはら)の地名で思うのは、
速神浅茅原目妙姫
(かみととはや・かんあさぢはら・まくわしひめ)。
箸墓の被葬者こと、迹迹日百襲姫の別名である。
やはりこの「笠の郷」は百襲姫に所縁ある地なのか…?



by utoutou | 2019-04-21 16:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 225 日本第一の荒神社

穴師坐兵主神社の奥の笠山三宝荒神社(桜井市笠)へ。
JR奈良駅近くでレンタカーを借り、小1時間で到着。
笠山荒神社→穴師山→箸墓のレイラインがあるようだ。
夏至の日、その方向から昇る朝日を箸墓から望める。
笠山は箸墓の被葬者・迹迹日百襲姫命の聖地だったか。

巻向から笠山荒神への道も古くから拓けていたらしい。
山の辺の道は水辺。産鉄のタタラ跡が見つかっているが、
そうすると、縄文の人々の生活圏は穴師山の向こうに
あったのだろうと考えていたので、自然と足が向いた。


アクセスは、巻向から県道50号線を登るのが一般的
なようだが、奈良市から南下したので石上神宮から
 竜王山を迂回するコースで。↓ 天理ダムの桜が綺麗。
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笠山荒神社(笠山坐荒神社)に着いた。
説明板に 「荒神発祥の地 日本第一 笠山荒神社」と。
   三宝荒神が生まれたという、千古の昔よりの神体山。   
〜 ご祭神 土祖神(つちのみおやのかみ)     
  奥津日子神(おきつひこのかみ)
   奥津比賣神(おきつひめのかみ)〜
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祭神は「竃の神」というとも、由緒に記されていた。
境内に入ると、すぐに立派な狛犬の出迎えを受ける。
  この鷲峯山(じゅぶさん)は「笠の郷の神奈備」であり、
  また「倭笠縫邑の伝承地」と由緒に。木漏れ日が眩しい。
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荒神発祥の地、そして「日本三大荒神」のひとつ。
祭神の奥津彦・奥津姫とはもしや語り部が穴師山
で視た向津彦・向津姫のような存在ではなかったか…
などと思いながら、参道をゆっくりと進んだ。
この地に大王と大君が祈り崇める御嶽があったのか…。


10分ほど登った。参拝客はなく静か。鳥の声が賑やか。
門前のお蕎麦屋さんの駐車場では数台の車を見たが、
平日だからか、神社まで登ってくる人はいなかった。
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木々を見上げ、並ぶ石灯籠を楽しみながら来たが、
ここで足が止まって、威厳のある鳥居を見上げる。
「笠山荒神」の扁額に、火焔宝珠紋も刻まれている。
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初期ヤマト王権発祥の地・巻向から車でわずか20分。
3千年の昔から信仰の山として仰がれたが、持統天皇の
時代に荒神が神姿を現し、役行者に奉祀されたという。
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↓拝殿には左縒りの注連縄と龍と鷲と、えべっさん?
神仏習合の時代を経て、修験道が興ってから、僧や
陰陽師たちの修行の地として崇敬が厚かったという。
明治時代の神仏分離で、「笠山坐神社」となった。

山も深いが、ここには知られざる深い信仰の歴史が
隠されているかのような、謎めいた神気が漂う。
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三宝荒神は「仏・法・僧」を守護する神というが、
どうも、定説はないらしい。いっぽう、荒神は、
各地で「金屋神・金鋳神」として祀られている
ことから、私は産鉄の守護神だと考えているが、
社務所のポスターに描かれた火焔宝珠紋(右上)を
見ているうち、その意味に行き当たった気がした。
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向津姫(撞賢木厳之御霊天疎向津姫)が祀った
のは…と、語り部があるとき言ったものだった。
「それは日と火と霊(ひ)である」と。また、
「霊とは、森羅万象のエネルギーである」と。

 3つのヒが荒神を表すのなら、その霊力を身に授かる  
 向津姫は、縄文産鉄民(火の一族)のシャーマンだ。
政(まつりごと)を司る向津彦もまた…。古来からの
信仰があったここ笠山は、向津彦と向津姫の山だった?

由緒には、
「奥津彦・奥津姫は須佐之男命の神裔」と記されている
から、この地「出雲」の向津神だったのだろうか。
「竃の神」というが、竃とは本来、三つ巴の火焔宝珠
が象る三角形…つまり、タタラ製鉄の火床(ホト)を
指していたのではなかったか…と思う。



by utoutou | 2019-04-18 17:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 224 穴師山への道

 ご縁あって、また関西へ。
大阪からJR大和路快速、奈良からJR大和まほろば線を
乗り継で行き、山の辺の道あたりを巡った。春爛漫。
気温は低いが天気よく、しばしば山の桜に目を奪われる。


先週木曜の午後、国道169号線「相撲神社入口」から、
穴師山へと登り道をゆるり進む。これも山の辺の道の一部、
やがて山の辺の道は檜原神社方面(南、写真右)へ折れるが、
なおも直進。視線の先には常に穴師山(写真中央左)の頂き。
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景行天皇巻向日代宮跡。遠景の山々に名残りの桜が。
山の辺の道ウォーカーは、一眼レフカメラ持参多し。
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国道から、穴師山の相撲神社までは徒歩20分ほどだが、
寒かったので大神神社近くの三輪駅から一部はタクシーで。
風が強かったせいか、雲はみるみる流れて思いがけず快晴に。
久々の参拝。案内板が真新しい。ブルーシートの下は土俵?
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野見宿禰が勝利したという伝説のある相撲発祥の地。
正面左は穴師坐兵主神社の鳥居。相撲神社は境外摂社。
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旧名・大兵主神社(だいひょうずじんじゃ)の鳥居。
穴師坐兵主神社。名残りの桜からヒラヒラと花弁が舞う。
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穴師坐兵主神社。穴師山の頂上にあった上社が
中世に焼失したため、こちらに合祀されたという。
古い由緒では、その祭神は「ひぼこ」。天日槍なのか?
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↑ 拝殿へと上がる石段が画像から見切れていたが、
それは↓境内整備のおじさまたちが休憩で座っていため。
写真を撮りながら、地元ならではの話をいろいろ聞いた。
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穴師には8軒しかなかったが、いまは100軒の家があること。
古代の弓月岳、高槻岳については聞いたことがないこと。
ただ、穴師山は近隣の山とは連なっていない単独の山。
龍王山や巻向山との間に笠山荒神へ登る道が元々あった。
笠山荒神は3千年の歴史があるので、兵主神社も古い。
大神神社よりも古い…というのが、地元の伝承であること。


皇宮跡や古墳群とは趣の異なる穴師、そして穴師山だが、
巻向という都にいた古代人からも崇められていた?
なぜなら…。

帰りは一本道を1.6㎞西に歩いて、巻向駅の近くに出た。
「正一位穴師大明神」と石に刻まれた、穴師の神の鳥居。
真ん中に(やぐらに少し隠れているが)穴師山が見える。
巻向(遺跡)と穴師山は、やはりユニットであるらしい。
この地点からわずか700m南(写真右)に箸墓古墳はある。
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ここはヤマト王権発祥の地というが、その脈絡とは
異なる歴史時間が、下層に流れているように感じる。




by utoutou | 2019-04-15 06:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 223 「山の辺の道」の冬至

「山の辺の道」沿いにある
第10代崇神天皇陵(天理市柳本町)は、
江戸時代には、第12代景行天皇陵(天理市渋谷町)
とされていた。両天皇陵は入れ替わっていたという。

「景行天皇陵」の項には、そう明記されている。
(以下要約)

☆景行天皇陵(渋谷向山古墳)は、記紀や『延喜式』
に記載はあるが、所在は江戸時代までは不明だった。
☆元禄年間、天理市の御墓山古墳と定められた。
☆享保年間には、現在の崇神天皇陵を景行天皇陵に、
景行天皇陵を崇神天皇陵とする説が見受けられたため、
それに基づき位置を改定(「安政の山稜改め」という)。
☆幕末になって指摘があったため、「文久の修復」
において再び位置が改められ、現在に至っている。
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江戸時代の安政〜文久年間、短期間ではあるが、
こちら「山辺道勾岡上陵」と刻まれる崇神天皇陵
は、景行天皇陵に比定されていたことがある。
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↓ふたつの天皇陵、現在の位置関係。
JR巻向駅前で撮った地図写真を、北を上にして回転
させたので文字は読みにくいが、赤丸加工した前方
後円墳が、現在の崇神天皇陵。すぐ下の前方後円墳が
景行天皇陵。その間の距離は700m、徒歩10分ほど。

崇神天皇陵は、穴師山の方向を向いているようだと、
先日「箸墓の向き」に書いたものの、それはなぜか?
と、疑問に感じていたが、景行天皇陵であるなら頷ける。


矢印の方向には、景行天皇の皇居・日代宮があった。
この方向は冬至(正月)の日の出ラインであり、さらに
六甲山を基点に穴師山を通る冬至の日の出ラインでもある。
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景行天皇は、皇子・日本武尊の遺言に従って、史書
『秀真伝(ホツマツタエ)』の編纂を大直根子に命じて
 残したという。その理念は「天成(アマナリ)の道」。
アマナリとは超自然の摂理を説く「縄文の心」と思う。
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ところで、
穴師山は、大和政権草創期の主要な産鉄地だった。
そのことは、古代製鉄遺跡があることから知れるが、
穴師にいまも鎮座する穴師坐兵主神社の由緒からも、
水辺の葦などの植物に生る褐鉄鉱(スズ)による、
もっとも原始的な製鉄が行われていたことが分かる。

『大倭神社注進状』(平安末期、1167年)は、
兵主神社下社(現在の穴師坐兵主神社)の祭神に
ついて、次のように記している。

〜(兵主神社)社伝  
下社 天鈿女命(アメノウズメ)也 神体は鈴之矛也〜

神体の鈴之矛とは、鈴なりのスズ鉄を付けた矛。
それを手にしたのは天鈿女命…冬至の日の出ライン…。

もしや、天鈿女命が舞い踊った「天岩戸」神話の舞台
とは、ここ大和の穴師山ではなかったか? その前日、
11月22日の日が沈むそのとき、山の辺の道の石上神宮
では、いまも続く、饒速日命の鎮魂祭が始まる…。

太陽の死と再生、渦を描くように新たな太陽が昇る。
大和神話の元型が、ここ山の辺の道に残っている?

by utoutou | 2019-04-09 22:08 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 222 三輪山の産鉄

仏教が伝来したという欽明天皇の6世紀半ば、
奈良盆地はまだ湖だった。元号「令和」のニュース
関連で話題の万葉集に、欽明より5代、時代が下った
舒明天皇(7世紀半ば)が、奈良盆地を「海原」と
例えて詠った長歌があった。(※万葉集巻一)

〜大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 
海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島
大和の国は 〜

平野には竃の煙が立ち、「海原」には鴎が舞う…
という光景が、天の香具山から北には広がっていた。

すると、欽明天皇の時代も当然のこと奈良盆地は湖や
湿地帯だったわけで、大和と(六甲山の見える)攝津
の間の交通は、もっぱら河川と茅渟の海(大阪湾)を
渡っての水運が担っていたことになるのだろう。


山の辺の道は「水辺」…。
あぁそれでと、思い出すのが、先月の旅で訪れた
崇神天皇陵(天理市)などの古墳地帯。標高が約65m
あるという山の辺の道に沿うように造られた古墳群は、
つまり、当時の湖畔に存在しているわけなのだった。
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崇神天皇陵のすぐ前から、左(北側)を見渡す。
石上神宮や和邇下神社や、その先の奈良方面まで
連なる「大和の青垣」の山麓に、24基の古墳がある。
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崇神天皇陵を背にして奈良盆地の方向を見ると、
南北(写真の左右)に走る県道まで緩やかな傾斜。
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崇神天皇陵(No.22)のある櫟本古墳群(↓MAP下部)
から、県道196号線(紫色)の東側に古墳群がある。
なぜなら、県道の西側の無古墳地帯は低湿地だった。
古墳地図は、天理市のHPより拝借。
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縄文・弥生の時代から、三輪山や穴師山を含む
山の辺の道沿いの水辺の村々は、豊葦原の瑞穂の国。

褐鉄鉱や砂鉄による産鉄が盛んに行われていたと、
真弓常忠氏はその著『古代の製鉄と神々』に記す。
(以下要約)

☆三輪山山麓は、産鉄に適した砂鉄などによる土壌。
☆三輪山西南部の金屋遺跡から、弥生時代の鉄滓や
  吹子の火口や焼土が出土しており、産製の痕跡がある。
☆大神神社の倭大物主櫛甕玉命は、鉄生産に関わる神。
☆穴師の穴は「鉄穴」の意味で、鉄工の跡もある。
☆大穴牟遅神=大物主神は「偉大なる鉄穴の貴人」。
☆三輪山周辺の産鉄族の長は物部氏であった。

☆4世紀後半から5世紀の韓鍛治の渡来による技術
革新で、やがてオオナムチの製鉄祭祀は埋没した。


向津彦・向津姫を遷し祀った末裔たちが、六甲山へ、
つまり、冬至の日の出ラインを遡るように移動した
とするなら、その発端は「鉄」と無縁ではないはずだ。

少なくともその時代は、仏教伝来の537年から、
物部氏の滅亡する587年までの半世紀だったのでは?
と、私はひとり考えている。


by utoutou | 2019-04-04 14:16 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 221 向津彦の行方

語り部がその姿を視たという向津彦が、
天照国照彦天火明櫛甕玉饒速日尊かもしれない
とは、あまりのビッグネームで驚いたが、
それにしてもモヤモヤして晴れない思いが残った。

その日御子が、天降った三輪山から追いやられた
ということは、天津神ではなかったことになる。

『先代旧事本紀』はこの長い名の日御子を、天孫
・邇邇杵尊の兄だと記している。それなのになぜ、
出雲族の崇めた国津神のように邪険にされるのか。
 饒速日尊は国津神に、邇邇杵命は天津神にと兄弟別れ…?


「古代出雲族は、いまの島根でなく大和にいた」と
いうことを司馬遼太郎氏は書いたが、確かにここは出雲。
鳥居の注連縄は出雲の左縒り。それにしても、なぜ?
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答えのようなものは、
時代下って、淳和天皇期の833年に出た律令解説書
  『令義解(りょうのぎげ)』の神祇令に見えていた。  
「天神地祇」の定義として、天神とは伊勢(など)、
 地祇とは大神、大倭(など)と、明記されているのだ。
「伊勢」と最古の「三輪」大神との地位が逆転している。

少なくとも三輪山の主・大物主神は、崇神天皇の時代
 まで、宮中で祀られる「国家的な祭神」だったはずだ。

地位が逆転した理由について、次のような説がある。
曰く、「仏教伝来(翌538年)を控えた537年
(欽明天皇期の丁巳の年)に、神祇制度の改革が行われた。
仏教を迎えるにあたって、三輪山の神を分化した。
この欽明期に、太田田根子を始祖とする三輪氏が、
三輪神を奉斎する氏族に選ばれた」と。
※前田晴人・著『三輪山--日本国創成神の現像』


こちら↓仏教伝来当時の金銅像(玉造稲荷神社)。
百済の聖明王から欽明天皇に贈られたという仏像似?
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三輪大神の分化とは神徳ごとに神社を造ることだった。
大神神社を農業神・疫病除けの神と限定したうえで、
疫病除け・生産の神として狭井神社を、
太陽神の檜原神社を、国土神として大和大国魂神社を、
また、金属の神(大穴牟遅神)を祀る穴師坐兵主神社を、
さらに、三輪山山頂に太陽神の神坐日向神社を創建した。

伊勢に天照大神を祀る準備だったのか。そのため、
三輪山山頂には伊勢を向く日向神社を祀ったと考える。

すると、三輪山と伊勢斎宮の東西を一直線に結ぶ
北緯34度32分の「太陽の道」は大陸から見てこの国が、
「日の本」の東に位置する国であるという証になる。

「太陽の道」とは、大陸との外交を前提に作られた
ものだったのではないか…。なぜなら、それ以前の
古代人が崇めたレイラインとは、春分・秋分ラインより、
斜めに交差する夏至・冬至ラインだったと思うからだ。

三輪山から追いやられた向津彦・向津姫は、やがて、
穴師山と同じ冬至の日の出ライン上に位置する六甲山に
祀られることになったのではないだろうか。

天皇と最初に呼ばれるようになったのは天武だという。
それまでの倭王は、大王(おおきみ)と呼ばれ、
神を祀ることを本務としていたとも。そうすると、
向津彦(天照大神)・向津姫(瀬織津姫)のふたりは、
縄文時代から続く斎王、最後のヒコ・ヒメだったか…。


壁に掛けられた絵 ↓を透視して、語り部は言った。
「その神社に、男女の絵が飾ってありませんか?」
「はい、ありますけど…」
私は答えたが、いまようやく気がついた。
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そのヒコ・ヒメの姿は、「縄文」の終焉を暗示する。
また向津彦・向津姫を遷し祀った先の、「向津峰」は
向津山→武庫山と変化して六甲山の呼称になったのでは?
ではいったい、どんな一族が、いつ遷移させたのか…?





by utoutou | 2019-03-30 20:39 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 220 大王の名は向津彦

巻向の穴師山にいたはずだと、語り部の言う
大王(おおきみ、日御子)と大君(おおきみ、日巫女)。
「祭政一致だった古代の王族、ヒコ・ヒメですね」
そう聞くと、私には初めて聞く呼称が出た。

「はい、向津彦と向津姫だと、私は思います」
「むかつひこ、むかつひめ、ですか…。
琉球王朝の王と聞得大君のような関係ということ?」
「大王である兄と、斎王である妹といった関係かと…」

口には出さなかったが、私はこう思った。
向津彦=天照国照天火明櫛甕玉饒速日命
向津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津姫命

このことは、以前にも何度か書いたことがあった。
饒速日命」では、久高島との関係を推理した。

一昨年、磐船神社(大阪府交野市)に参拝後
は、「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」を連続投稿。
あのとき、「岩窟巡り」という難行にも挑戦したが、
コースを終えた出口の先で ↓一対の龍蛇に出会って確信した。
饒速日命(天照大神)と瀬織津姫…ヒコ・ヒメの暗示だと。
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同じシリーズ「天照国照天火明櫛甕玉饒速日命」では、
久高島の第一祭場・外間殿にある「百甕」についての
語り部の大胆な謎解きを紹介していたものだった。

私自身も忘れていた内容だったので、以下にコピぺ。

〜百甕とは、「甕」のついたヒコと、「百」のついたヒメ
という一対神のことだと思う」と、語った2柱の神とは、
ヤマトの三輪山に住まう蛇神・大物主神と、その妻・
迹迹日百襲姫命が当てはまる。すると、琉球は、
大物主神の原郷ということになるか。

大物主神とは饒速日命のことだと大神神社な参拝の
後に書いていたが、その亦名は倭大物主櫛甕玉
(やまとおおものぬしくしみかたま)命、「甕」
の一字が含まれている。〜


今回も奈良旅でも参拝した大神神社の拝殿前。
由緒板には、「ご祭神 大物主神」とあるが、
『出雲国造神賀詞』は、倭大物主櫛甕玉命と亦名を記す。
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ヤマトの国の巻向の穴師山にいたヒコ・ヒメとは、「百甕
(むむはめー)」こと、倭大物主櫛甕玉命と迹迹日百襲姫。
という推理が、このブログでは既に出てしまっていた。

ではなぜ、そのヒコ・ヒメ、または向津彦・向津姫
は、三輪山ではなく、穴師山に立っていたのか?

語り部は、逆に質問した。
「三輪山の頂上には、何という神社がありますか?」
「高宮神社(こうのみや神社)ですが、元々あったのは、
神坐日向神社(みわにいますひむか神社)のようです」
「その方です。日向王子(ひむかおうじ)が向津彦。
  ただ、神坐日向神社はヤマト王権側に追いやられて、
本当の向津彦・向津姫は、穴師山に〈坐す〉ことになり、
移動しなくてはならなかったのだろうと思います」
「追いやられた…?」


三輪山に登拝」したときに参った高宮神社
祭神・日向御子神(日向王子)が向津彦だったとは。
ということは、つまり…?

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by utoutou | 2019-03-24 16:44 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 219 穴師山に立つ大王

穴師山のあたりに大王と大君のような男女が立つ
と語り部が言ったとき、「一対神か?」と思ったが、
「神ではなく…」と、彼はきっぱりと言ったものだ。
「巻向の地にいらっしゃった方々でしょう」

「そのおふたりは、どんな立ち姿で?」
ということは、聞かなかった。
その姿を語り部に視せているのが神的な存在なのか、
そうではなく、たとえばアカシックレコードのような
内なる存在なのかについては、私には分からないが、
「穴師山の周辺に立つ王と大君の姿」が、ビジョンの核。
というか謎解きへのヒントのすべてだ。いまの時点では。


そこまで聞いたからには、推理しないではいられず、
日本武尊と倭姫じゃないのかしか?と、自分でも考えた。
第12代景行天皇の皇子と、第11代垂仁天皇の皇女。
景行天皇の皇居・巻向日代宮(まきむくひしろみや)跡
や、垂仁天皇の巻向珠城宮(まきむくたまきのみや)跡
がこの地にあり、伯母と甥は所縁ある「ふたり」ではある。
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しかし、六甲山と穴師山を結ぶ日の出ライン…と
いうのが、今回の語り部の視るビジョンでは重要で、
ならば箸墓の時代とその向きを無視できない気もする。
ということは、「ふたり」は日本武尊と倭姫ではない。
その時代は4世紀半ば、箸墓の築造は3世紀後半だ。

箸墓は最古級の前方後円墳なので、当然のこと、
巻向には垂仁天皇や景行天皇の皇居はなかった。

また、巻向は集落というよりは祭祀遺跡と言われる。
目立った建築物のない時代、箸墓や掘立建物群が
向く先は穴師山(斎槻岳・弓月岳)の頂上付近。
おそらく語り部は、そこに「ふたり」を視た。
日御子(ヒコ)と日巫女(ヒメ)のように並んだ姿の。


その地点は、箸墓から見て夏至の日の出の方向。
(当時の固有歴でいう夏至は、いまの5月23日だが)
古来、「夏至の大平」と呼ばれた斎槻岳の高嶺に、
これから解くべき謎が隠れているようだ。
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ところで、「斎槻岳」という名前の由来は何か?
「槻(つき)」は「欅(けやき)」の古名というが、
そこにはもう少し深い意味がありそうだ。
瀬織津姫の亦名・撞賢木厳之御魂天疎向津姫命が含む
「撞(つき)賢木」と同義かもしれないと考えている。


大國魂神社(東京都府中市)鳥居前の欅(けやき)
斎槻岳の槻はこんな姿か(本文とは関係ありません)
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by utoutou | 2019-03-20 22:51 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 218 穴師山の日の出

桜井市穴師に鎮座する、穴師坐兵主神社
(あなしにいますひょうずじんじゃ)は「謎」だ。

かつて参ったとき、タクシーの運転手さんは言った。
「この神社は穴師に住む8軒の家がお護りしている
と、地元では昔から言われているんですよ」と。
境内に人の気配はなく、神さびていながらも、
どこか人里の温もりが感じられたのは、そのせいか。

縁起も謎めいている。室町時代に上社と合祀された
経緯もあるようで、本殿は三神殿が連なっている。

由緒によれば、中央の祭神は、崇神天皇の60年に、
垂仁天皇の皇女である倭姫が、天孫降臨の際の鏡
の一体を祀ったと。神体が神話時代の鏡とは驚いたが、
伊勢の初代「斎」宮・倭姫と、「斎」槻岳(穴師山)
の一致は何ゆえか。もしや、ここは元伊勢…?
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さて、穴師山に男性と女性が立たれる姿を視た
 という語り部の話を先日書いたが、実は、
これには後日談がある。一昨日、電話があった。

「六甲山から穴師山の方向に日の出は見えますか?」
「六甲山から…ですか!!!」
また難しい質問が飛んで来たと、思いつつ
久々に聞く「六甲山」の名を、思わず繰り返した。
いよいよ、謎解きの新展開を迎えるときが来たか?


しかも、その答えを出すのは、そう難しくない
はずだと、私は嬉々として考えた。六甲山の
保久良神社で見た大阪湾鳥瞰図を思い出していた。
茅渟の海を一望するそこから二上山(左矢印)も
生駒山も見える。穴師山はその中間ぐらいだろうか。
(過去記事は「知られざる元出雲」)
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それなら日の出ラインが六甲山と穴師山を結ぶ日は、
日の出日の入り方角マップを使えば容易に割り出せる。
兵庫県と奈良県の位置関係を考えれば、それは
おそく冬至になるのだろうと、密かに山を掛けた。


ところが、
予想に反してスッキリとした答えは出なかった。
六甲山で見る冬至の日の出ラインは穴師山を通らず、
やや南(右)から太陽は昇って来るようだった。
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いきなり路頭に迷いそうになったが、踏み止まる。
たとえば、穴師坐兵主神社が創建された垂仁の時代、
冬至はいまより早い時期の11月23日だったはずだ。

先日の「本当の建国記念日」にも書いたように、
持統天皇4年(690年)に中国暦が導入される
以前の暦では、冬至はいまの太陽暦より1ヶ月早く、
冬至正月という特別な日でもあったと考えられる。

その日はまた、神武の時代から続く大嘗祭の日。
天皇の即位する践祚大嘗祭はその日に挙行された。
今上天皇の大嘗宮の儀も、11月22、23日だった。
(今年の新天皇の場合は、11月14、15日の予定)


六甲山の山頂から冬至の日の出ラインを追う
と、なんとピッタリ穴師山の頂上を貫いた。
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穴師山(纒向)地域を拡大すると、このように。
六甲山→穴師山→巻向山の方向に朝日が昇る。
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恐るべし六甲山、穴師山、語り部へのビジョン。
それにしても、冬至の日の出ラインは何を語るのか?

語り部は、男女の大君の姿を見ると言うが、
歴史に隠されたヒコ・ヒメがいよいよ現れるのか。
そのヒメは、後に瀬織津姫と呼ばれる向津姫なのかも。



by utoutou | 2019-03-18 08:33 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 217 箸墓の向き

10年前に国立民俗博物館が行なった炭素14年代
測定法による測定で、箸墓の築造は3世紀後半とされ、
卑弥呼の没年(248年)とほぼ一致するということで、
桜井市では「卑弥呼の里」の整備が着々と進行中だ。

しかし、迹迹日百襲姫は本当に卑弥呼なのか?
「九州か奈良か」そして一部で「沖縄か?」と言われる
邪馬台国論争はさて置き、箸墓の被葬者は卑弥呼では
 ないと思う。理由は史書『魏志倭人伝』に見えている。

「径100歩」の大きさ表記は前方後円墳に当たらないし、
「1年中野菜が食べられる」邪馬台国は列島の西南部だ。

ただ、巻向駅にも案内のあった「大型建物跡の発掘」
は、この地の首長の日常や財力や建築技術を思わせて、
興味深かった。右下に説明があったので、要約。
〜辻地区の建物群 JR纒向駅西南部の纒向遺跡中心部で、
方位を揃えて建てられた3世紀前半頃の掘立建物柱が
見つかり、柱穴の状況からその姿が推定されている〜
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「卑弥呼の館」とされる掘立建物の柱を
「見える化する」復元工事が完成したという記事を見た。
掲載された写真(拝借)↓を見て、オオッと驚いた。
この建物群も穴師山(右からふたつ目)に向いている?
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次に、穴師坐兵主神社の座す穴師山(標高409m)
の頂上を国土地理院地図で見てみる(中央の➕地点)。
穴師坐兵主神社は、線上の少し左下に鎮座している。

箸墓と掘立建物群が穴師山を向いているという指摘は
既にあったが、崇神天皇陵(左上、4世紀前半)も…。
この方角の一致は、いったい何を表しているのだろう?
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穴師山は、箸墓の池で撮った写真にも写っていた。
左が北方向、山の辺の道は右(南)へと伸びている。
ほぼ中央の頂上が三角に尖った山が、穴師山だ。
右から、箸墓の円墳越しに見える三輪山(467m)、
巻向山(567m)、そして穴師山、龍王山(586m)。
三輪山と穴師山が箸墓に近いのが、上の地図で分かる。
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箸墓→兵主神社→穴師山が夏至の日の出の方向に
一直線に向いていることが実感できるアングル。
夏至の日の出を拝する場所に箸墓を造ったのか、
はたまたその逆か…。いや、逆はあり得ないだろう。
崇神天皇陵の向きは夏至の日の出ではないからだ。
ズバリ、穴師山を向いている。その古名は、
弓月岳(ゆつきがたけ)と、斎槻岳(ゆずきがだけ)。
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数日前、語り部が電話で言った。
「穴師坐兵主神社とは、何ですか?」
「穴師」の言葉が繰り返し聞こえて眠れなかったと。

「前回のブログに書いた穴師山に鎮座する神社です。
頂上の上社は焼失、現在の社に合祀されたようです」
「穴師というのだから、そのへんは金鉱なんですね?」
「辰砂や朱が採れたみたいです。古名は弓月ヶ嶽、斎槻岳」

「ゆつき、ゆずき…?」
「はい、ひとつは弓月君(ゆつきのきみ)の弓月です。
秦氏の祖と言われる渡来人の名前と同じ。もうひとつ
は、斎槻(ゆずき)。槻はケヤキの古称のようですね。
斎宮の斎の字が入っているのも、意味深で…」

私が、にわか勉強したことを伝えると…。
「ふたつの時代にわたって、聖地だったのでは。
そしておそらく、その山に隠されているのでしょう。
男性と女性が、交互に立たれるんです。
大王とか大君と呼ばれていたような方だと思います」


by utoutou | 2019-03-14 18:06 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)