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六甲山と瀬織津姫 57 おなり神の滅亡

丹後半島の神社巡り。竹野(斎宮)神社の
次は熊野神社(京丹後市久美浜町)へと急いだ。
 国道178号を小1時間、西へ走り、久美浜湾を目指す。
  伊邪那美命を祀る熊野神社が兜山の頂上に鎮座する。


ところが、直近で右折する交差点を逃し、結局、
日本海側へ抜ける周回道路に入ってしまったらしい。
やがてどんどん下るので車を止め、振り向くと↓兜山。
標高約191.7m、熊野神社の御神体山とされる。
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古くは甲山、神山と呼ばれたらしい。
山名が同じなら、その姿も六甲山の東端に建つ
神呪寺の神体山・甲山とそっくりなので驚いた。
↓こちら鷲林寺方面から遠望した六甲山の甲山。
その相似は何か謎を秘めているように感じる…。
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残念ながら熊野神社参拝は断念したが、
熊野神社の由緒は次の通り(要約)。
(※京丹後市教育委員会)
☆社名は熊野郡の名称の由来になった。
☆『日本三代実録』の「868年」に記事がある。
☆甲山は神山が転じたもの。もとは山全体が信仰
の対称になっており、祭祀遺跡も多い。
☆勧請したのは丹波道主命と川上麻須郎である
と江戸時代の地誌『丹後旧事記』に記録がある。
(丹波道主命は川上麻須郎の娘を娶った)


丹波道主命は開化天皇の孫(=日子坐王の皇子)。
『日本書紀』崇神天皇の条に、四道将軍として
丹波に派遣されたと記される。また垂仁天皇の
皇后・狭穂姫命の亡き後、その遺言に従って、
日葉酢姫ら5人の娘を後宮として喚上した。

 后妃が交替するドラマに、どんな理由があったのか?

記紀は、その前段に、狭穂姫の兄・狭穂彦が
 謀反を起こしたが失敗、兄と妹は絶命したと伝える。

丹波道主命の姫たちが指名された理由について、
川上順子氏は著書『古事記と女性祭祀者伝承』
(JP出版)で、次のように分析している(要約)。
☆崇神・垂仁天皇の時代に、皇后の出自が皇統譜
に繋がる皇孫であることが強調され始めた。
☆しかし、母「族」は問題にされなくなった。
☆狭穂姫の死で、ヒコヒメ制は消滅した。

ヒコヒメ制の消滅とは、「おなり神」の消滅を
 意味すると私は思う。おなり神とは琉球の古い信仰で、
妹(おなり、うない)が、兄(えけり)を
霊的に守護することをいう。


琉球王朝で最高位の神女として、国家安泰と
琉球王を守護した聞得大君も王の姉妹か王女だった。
(↓首里城。台風18号襲来前の10/1に撮影)
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神の島・久高島の↓久高殿で行われた古祭
イザイホーも、おなり神が誕生する儀式だったし、
いまも「おなり神信仰」は生きている(10/1に撮影)
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兄に殉じた垂仁皇后・狭穂姫は「妹なる皇后」
だったと、川上氏は著書で述べている。対して、
後宮の日葉酢姫らは「ポスト妹なる皇后」だったと。

私は思う。
このときヤマトの「おなり神」信仰は滅亡した。
が、琉球では現代まで絶えることなく脈々と続いた。

『日本書紀』では、垂仁天皇の条を境に、
「丹後の姫」に関する事績は次第に消えていく。

王権の成立過程で進んだ「妃選びと祭祀」の変更
は、裏返せば、海人族とその原郷だったろう琉球の
 切り離しに他ならなかったのかもしれないとも思う。




by utoutou | 2016-10-05 08:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 56 シャーマンの血脈

斎宮神社(いつきのみやじんじゃ)の祭神
である竹野媛が『魏志倭人伝』に登場する台与
とすれば、叔母にあたるらしい卑弥呼は、
竹野媛の父・丹波大県主の由碁理(ゆごり、
建諸隅命)または、母の姉妹ということに。
いずれにしても、シャーマン一族を祀る神社だ。



社殿の前で「あら…」と、その彫刻に驚いた。
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葡萄(ぶどう)と栗鼠(りす)が左右対称に。
同じ文様を、首里城正殿で見たことがあった。
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首里城正殿2階にある御差床(うさすか、
琉球王の玉座)の乗る壇を、ぐるり取り巻く12枚の
羽目板に「葡萄と栗鼠」が鮮やかに彫刻されている。
丹後の旅から既に2週間、きょうから沖縄に
いるので、首里城までひとっ走りして撮影してきた。
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「葡萄と栗鼠」は桃山〜江戸時代にかけ流行した
デザインで、発祥は中国との説が主流だが、
ペルシャとか古代ユダヤといった説もあるようだ。
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「葡萄と栗鼠」は多産・多幸を示す意匠で、
子孫繁栄を叶えてくれる至高の吉祥文様。
葡萄の育たない沖縄でも王家が盛んに用いて、
漆器や調度品などにもあしらわれていた。

それにしても日本海を望む丹後の斎宮神社で、
琉球に出会うとは、海は広いが世界は狭いものだ。



首里城正殿に行ったので、そう言えばと思い、
やはり正殿2階・東南の一角にある
「おせんみこちゃ」をしっかり覗いてきた。
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東南の隅に位置する王の拝礼室・おせんみこちゃ。
その東端の神壇に金の香炉(火之神)がある。
古くは「おみちもん(御三つもの)」と呼ばれ、
3つの霊石を指したと言われている。

三神とは太陽・月・星だと、語り部はかつて、
ナーワンダーグスクで言っていたが(記事はこちら
http://mintun.exblog.jp/20232380/)
私も六甲山〜丹後〜沖縄へと旅するいま、
「この火之神も太陽・月・星の三神だ」と確信した。


撞賢木厳之御魂天疎向津姫命について語り部は
言う。「本当の向津姫とは、3つのヒを束ねて
操ることのできる日巫女(斎宮)のことです。また
太陽の陽(ヒ)燃える火(ヒ)水の霊(ヒ)とは
三法宝珠=撞賢木厳之御魂を指すのだと思います」

私はこう考えた。撞(=月)、賢木(=太陽)
厳之御魂(=水の星・地球と星々)。そうした
あらゆる自然神の霊力を呼び集め、齋き祀る神女
だけが撞賢木厳之御魂・天疎向津姫と呼ばれたのだ。

丹後海部の竹野姫も、シャーマン・卑弥呼も、
琉球の聞得大君も、真名井御前こと如意尼も、
そうした霊力(しじ)高い神の子だったはずだ。
「倭国」の血脈を継ぐ日巫女たちだったと思う。













by utoutou | 2016-10-03 06:45 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 55 竹野神社へ

 名神大社・竹野神社(京丹後市丹後町竹野)。
浦島神社から近畿の最北端・経ヶ岬を通り
丹後一周道路の国道178号線で、約30分。

道の駅てんきてんき丹後(←MAP)近くに鎮座。
カーナビの目的地に道の駅を入力して走った。


竹野神社(本殿)と斎宮(いつきのみや)神社。
社号標も右左に建っている(が、右は見切れた)。
齋宮神社…その社名に心奪われていたようだ。
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道の駅の名になっている「てんきてんき」は、
竹野神社の祭礼に演じられる郷土芸能のこと。



↓ 国道から入るが、これが参道だとすぐに分かった。
田畑から盛り上がった一本道。ザ・王道という印象。
日本海を背に、竹野川を河口から溯るかのように、
正面(東)に竹野神社が鎮座。手前に神明山古墳。
被葬者は丹波道主命か竹野媛と言われている。
   左奥には神体山・依遅ヶ山(いちがおさん)を遠望。   
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由緒書に、以下の社伝があった(要約)。
☆竹野神社の祭神は天照大神。
☆斎宮神社の祭神は日子坐命、
建豊波豆良和気命(たけとよはずらわけのみこと)
そして、竹野媛命を祀る。
☆竹野媛は丹波大県主由碁理の娘で開化天皇妃に。
☆老いた竹野媛が天照大神を祀ったのが創祀由来。
☆斎宮神社には用命天皇の皇子・麻呂子親王も
祀られ、鬼族退治などの伝承がある。
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天皇妃や親王とは、つくづく皇家に所縁の神社。
浦島子の先祖・日子坐命も鎮座している。
浦嶋子は『丹後風土記』に日下部首の先祖とある
が、その日下部首とは、『姓氏家系大辞典』に、
「日下部宿禰同祖、彦坐命之後也」とあった。
「即ち開化天皇後裔、丹波道主家の一族にして、
子孫大いに栄え…」「与謝郡の古大族」とも。

時代順では、開化、彦坐命、丹波道主命、そして
5世紀後半に浦嶋子(日下部)が歴史に現れる。
ということは…と、御由緒の前で考える。

日下部の前に権勢を誇った古大族…とは?
和邇(和珥)だ。開化妃となり日子坐命を生んだ
のは和邇の姥津媛(おげつひめ)だった。※記紀

 いっぽう、由碁理の娘・竹野媛も開化天皇妃
となり、比古由牟須美命を生んだ。※記
『記』の一伝では、その子が丹波道主命である。
由碁理は海部氏『勘注系図』に建諸隅命とある。

いっぽう、調べるとこちら斎宮神社の祭神
・建豊波豆良和気命の母は開化妃のワシ媛。※記
そのワシ媛は、葛城・垂見宿禰の姫という。



和邇、葛城、海部の祖神が並ぶ斎宮神社は、
つまりアマテラス以前の神々を祀る古社である。
竹野媛は「丹後の姫」たちの初代斎宮だった…。
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竹野神社の中門。かつて「斎宮神社」の扁額が
 掛かっていたというが、見上げても今はない。
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実は、竹野神社・斎宮神社に参ってから
 ずっと気になっていたのは、竹野媛の名前だ。

すると…『勘注系図』に建諸隅命(由碁理)の子
として日本得魂(やまとえたま)命が見え、
 妹の名は大倭媛命、亦名は天豊媛命と分かった。
その姫こそが、竹野媛のことであろうか。

豊(トヨ)? 台与…13歳の…? 竹野媛とは、
『魏志倭人伝』に登場する倭国の女王なのか?



竹野神社本殿(左)と斎宮神社(右)。右は拝殿。
本殿に十六菊と桐の神紋、鶏の彫刻があった。
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by utoutou | 2016-09-27 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 54 浦嶋神社へ

籠神社・真名井神社(京都府宮津市大垣)から
車で20分走り ↓「舟屋」で有名な伊根の港へ。
そして、浦嶋神社(与謝郡伊根町本庄浜)へ向かう。
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籠神社(青)〜 浦島神社(赤)国道178号線を走った。





経ヶ岬を経由して1時間ほどで到着。
平日のせいか昼時だからか、参詣客はまばら。
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鳥居前の社号碑に「うら神社」と刻まれている。
田畑と山々囲まれており、ここから海は見えない。
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さて、この社に詣でたことがないままに、
数ヶ月前、記事()を書いたものだったが、
 境内で初めて御由緒の全文を嬉しく拝見。
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そこには祭神のほか、日下部一族についてや、
北極星信仰についても、明記されていた。
以下、御由緒(要約)

〜 浦嶋神社[宇良神社]
祭神 浦嶋子(浦島太郎)
相殿神 月讀命、祓戸大神

☆『延喜式神名帳』に『宇良神社』とある式内社。
☆浦島子は雄略天皇22(478)年に常世の国へ
行き、300有余年を経て天長2年に帰還(伝承)。
☆淳和天皇が浦島子を筒川大神として祀った。
その大祖は月讀命の子孫、日下部首の先祖である。
☆社殿は北極星を向いており、北極星信仰・・・〜

なぜか北極星信仰に続く・・・の部分には、白い
テープが貼られていて読めなかった。宮司さんを
探したが、運悪くお留守で、仕方なく英文を見る。

〜Emperor Junna named Urashimako
Tsutsukawa Daimyojin God and the shrine
was founded . in one theory, the Poriar Star
is enshrined as a God too.〜

(自前の訳)
〜淳和天皇は浦島子を筒川大明神として、また
一説には北極星も神として祀り神社を創建した〜

真名井神社では、祭神の豊受大神(天御中主神)
に、住吉大神・綿津見神・塩土老翁といった
異名があると石碑の銘に示されていたが、ここでは
ズバリ、筒川大神(住吉大神?)と北極星が主祭神。

北極星=天御中主神=天帝=太一=子(に)ぬふぁ星。
古来、琉球の海人族が崇めていた「北極星」を、
ここでしみじみと思ったことは言うまでもない。
日下部とは、大海を渡り来た先着の民なのだろう。



拝殿横の看板には、次の題文の看板があった。
〜浦嶋神社創祀一千二百年祭に伴う
本殿等大改修に関わる御寄付のお願いについて〜
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こちら東側から仰ぐ本殿。
明治17(1884)年の遷宮での建立という。
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ところで、日下部氏と海部氏は同族というが、
真名井神社に加えて浦嶋神社が創られた
のは、いったいなぜだったのだろうか?

淳和天皇の御代、
こちらに祓戸大神(瀬織津姫)を祀らねば
 避けられない災厄が起きていたのかもれしない。

社伝によれば、本殿は北極星を向いている。
神社の位置は東経135度15分。
あ、そうかと思う…。以前の記事に、
南北に神社が連なる「東経135度の子午線
天御中主神ライン)という自説について書いたが、
浦島神社は、その最北の地にあたる。

東経135度の子午線(南北線)に並ぶ6社。
保久良神社、廣田神社、芦屋神社、越木岩神社、
六甲比命神社、本住吉神社。祭神は、住吉
神社(住吉三神と神功皇后)を除いて瀬織津姫。
天御中主神ラインとは、瀬織津姫ラインだった。

その最北の7社目・真名井神社の豊受大神が、
御饌津神として伊勢の地に遷座して以降、
長きにわたって空位になっていた神座は、
浦嶋神社で再生したということなのではないか。
浦島子が持ち帰った龍宮宝珠の威光によって…。









by utoutou | 2016-09-24 14:52 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 53 真名井神社

六甲山と丹後の関係を、姫=巫女=女性祭祀者
 に求めると、筆頭に真名井御前が挙げられる。

時代は「丹後の姫たち」が武庫の地に来てから
かなり下るが、籠神社海部氏の娘に生まれ、その
奥宮と同名を授けられ(籠神社では真井御前と記す)
10歳から京都・六角堂で修行して空海と出会い、
淳和天皇の妃となるも出家して如意尼を名乗り、
甲山・神呪寺を建て自ら如意輪観音菩薩のモデルと
 なる…なんだかとても数奇な人生を辿った姫だった。

また「浦島太郎」との年代の一致を見ると、
真名井御前は、封じられた民が長く待ち望んだ
 霊力高き「丹後の姫」だったようにも思える。

年譜は以前「浦島太郎と玉手箱」に書いた通りで…
雄略22(478)年、豊受大神が、この元伊勢から
伊勢へと遷座したのと同年、浦島子(浦島太郎)
は龍宮へ行った(以上『日本書紀』)。そして、
347年後の天長2(825)年、浦島子が帰還した
その頃、真名井御前は神呪寺を創建。空海が、
浦嶋子の持ち帰った宝箱を如意輪観音像に隠した。

この隠された龍宮の宝箱が、語り部の視る
「龍宮(琉球)の「ぬぶし玉(宝珠)」なのか?
とすればなぜ、淳和天皇の世はそれを望んだのか?
などをつらつら考えるのが、丹後旅のテーマだ…。



まずは籠神社・奥宮の真名井神社へ。
主祭神・豊受大神。籠神社から徒歩15分、
背後の御神体山を目指して急いだが…ガク然。
3年前の秋とは違い「立ち入り禁止」となっていた。
拝殿横から正面には見えるが、手は届かない。
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↑鈴なりの鈴の横に、案内書きがあった。
〜天に通ずる御生れ鈴
『丹後国風土記』や『古事記』『日本書紀』に
よれば、天橋立(天浮橋)は神々が天と地を交うため
 に造られた梯子(橋)であったと伝えられています。
その根元にある磐座は天に坐す神々に願いを伝える
特別神聖な祈りの場でありました。この御生れ鈴の
清らかな音色は磐座を通して参拝者の心を
天まで届けるものです。〜




↓御神体山(3年前の撮影)の前。いまは、
白石が敷き詰められ、遠くから拝するのみ。
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こちらも3年前の真名井神社。奥へ一歩進むと、
神代の時空に浸る気がしたものだったが、残念。
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この度は、写真に映る方たちと同じように、
塀から身を乗り出し、恨めし気に参拝した。
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いまは、「古代祭祀場」のうち左側の
天照大神(男神?)の磐座をこうして覗く感じ。
右に映る建物は、真名井神社の拝殿。
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真名井の霊水で磨かれ美しく育った厳子姫は、
20歳のとき、まだ皇太子だった後の淳和天皇に
みそめられて、第4の妃として迎えられたという。
こちら磐座に射す西陽(クドいようだが3年前の撮影)。
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さて、いよいよ浦島神社へと出発。
籠神社の正面には「本宮御鎮座千三百年」と。
来る平成31年が、記念の年となるらしい。
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by utoutou | 2016-09-20 22:38 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(1)

六甲山と瀬織津姫 52 丹後の姫たち

神功皇后が創祀した廣田神社。祭神である
撞賢木厳御魂天疎向津媛命(瀬織津姫)を祀る
斎宮(巫女)は葉山媛といった(こちらにも記事)。
海部氏の勘注系図に記される山背根子の娘という。
よって、神功皇后と同じ「丹後の姫」である。


初代斎宮として、廣田神社の摂社である
斎殿神社に祀られている(写真は再掲です…)。
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『日本書紀』や神社の創建由緒にもある通り、
神功皇后らが朝鮮半島出兵から帰還する折りのこと。
応神天皇の異母兄弟であるカゴ坂王と忍熊王が
武装して待ち構えていると知り、皇子を紀伊水門に
避難させると真っすぐ難波に向かった。が、難航。
すると、天照大神が「我が荒魂を皇后の近くに置く
のはよくない。広田国に置くのがよい」と、神意
を示したので、葉山媛に祀らせることにした…。


また、葉山媛の妹である長媛は、事代主命を
↓長田神社(神戸市長田区)に祀った。その
神意は「自分を長田の国に祀るように」だった。
祀った長媛も当然のこと、「丹後の姫」である。
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いっぽう、天照大神の妹・稚日女尊が、
「自分は生田長狭国にいたい」と神意を示した
ので、海上五十茅(うながみのいさち)に
祀らせたのが、生田神社(神戸市中央区)の由緒。

では、この巫女も「丹後の姫」なのだろうか?
について探ってみると…。

現在まで、生田神社の社家は天穂日命の末裔と
 のことで、海上五十茅も同系譜の姫と考えられる。

天穂日命は出雲の神だが、丹後にある産霊七社
(京丹後市久美浜町市場)にも祀られている。
ちなみに、こちらの社家は日下部氏という。

市場村に、姫に関する不思議な伝承がある。
〜竹野神社(京丹後市丹後町)の巫女は、
市場村の日下部氏の血を引く娘と決まっている〜

その竹野神社は、同じく丹後の日本海側にある。
天照皇大神を祭神とするが、摂社の斎宮神社
には、竹野媛と日子坐王などが祀られる。
開化天皇の妃となった竹野姫も「丹後の姫」だ。

とすると、
生田神社で稚日女命を祀った海上五十茅も、
市場の娘…つまり「丹後の姫」の可能性が大か。

丹後から大和へ、摂津の六甲へ。
日本海から遠く隔たる瀬戸内海まで、姫たちが
何かにつけやって来た。あるいは喚し上げられた。
その理由とはまた、どういうことだったのか?
甲山の神呪寺を建てた真井御前こと、海部宮司家
31代・雄豊の娘だった厳子も「丹後の姫」。



そんなわけで、丹後半島に出かけてきた。
台風の間隙を縫い金曜日、東京からの夜行日帰り旅。
まずは海部氏の籠神社と、奥宮・真名井神社から。
その佇まいは、3年前とはかなり変貌していた…。
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by utoutou | 2016-09-19 09:14 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 51 武内宿禰

古代、六甲山は武庫山と呼ばれたというが、
武庫泊(むこのとまり)を見下ろす位置にある。

万葉集には、難波の地から西の方向を見渡すと、
武庫の港から船が出て行くのが見える…という、
これから旅立つ人の思いを歌った歌があった。
武庫の津は難波を出て最初の寄港地だったらしい。
武庫は、山であり海なのである。



神呪寺の仁王門には「武庫山」と山号額が掛かるが、
廣田神社(古代の海岸線)からは、わずか3km。
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甲山・登山道の中程(標高200 m余)から港を展望
に、六甲山ロープウェーのアナウンスを思い出す。
「晴れた日は関空や紀伊の山々もご覧になれます」
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さて、
海部の勘注系図からも同族と分かる日下部氏と
安曇氏は、共に南方から渡来の先住海人族だが、
実は紀国の名草氏も加わっていたようだ。
そして、その系譜に武内宿禰の名が浮上する。

安曇氏、名草氏について、『住吉大社』
(住吉大社編)は、次のように記す(要約)。

☆安曇はアマ(海)ツ(の)ミ(神)で海神の意味。
☆応仁天皇の時代から、淡路島や難波にもいた。
☆本拠は筑前国粕屋郡安曇で、志賀海神社の社家。
☆『日本書紀』神功皇后の朝鮮出兵の条にある
〜磯鹿の海人名草を遣わして視しむ〜の「名草」
とは、志賀海神社の安曇氏に関係する海人の一人。

名草の名前は、『住吉大社神代記』にも見える。
〜然して、新羅国を服え給い、三宅を定め、亦、
大神の社を定めつ奉つる…祝(はふり)は
志加乃奈具佐(しかのなぐさ)なり〜

神功の新羅出兵に志賀の名草氏(安曇氏)が
従軍したことは、どうやら間違いなさそうだ。



名草氏の本拠は紀の国だった。
↓名草彦と名草姫が祀られている名草宮。
現在は日前神宮・国懸神宮(和歌山市)の摂社
だが、創祀当初の日前宮は「奈具佐の濱宮」と
呼ばれ、天照大御神の御杖代・倭姫も巡行した。
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「名草」と言えば、神武東征の物語で
「名草戸畔を誅した」とのくだりに登場する
女首長・名草戸畔が有名だが、私が日前宮に
 参拝した後、語り部は少し唐突に質問をした。

「近くに武内宿禰の井戸はありませんでしたか?」
あるも何も…知らなかったので…と、調べると、
市内近隣に鎮座する安原八幡宮の奥宮・武内神社
 に、誕生のとき産湯を汲んだという井戸があった。

武内宿禰の母は、日前宮を祀る紀伊国造
・宇治彦の娘・山下影姫と、また父は孝元天皇
の三世孫にあたる方と言われている。

また、
武内宿禰の生誕地、あるいは紀氏のルーツには
九州説もあるが、この安原八幡宮の祭神を知り、
少なくとも朝鮮半島との強い関連が感じられた。

安原八幡宮の祭神は誉田別尊(応神天皇)、
そして、気長足姫尊(神功皇后)、武内宿禰。

由緒は…(平成祭礼データより、要約)
〜神功皇后が三韓より凱旋の際、忍熊王の難を避け、
難波から紀水門(ここ安原)に船を着けた。
誉田別を武内宿禰に護らせ、自らは迂回路を取り、
後に戻って合流、この地に頓宮を建てた〜

武内宿禰生誕の地、一族が勢力を張った地、
というのが、応神天皇が身を寄せた理由だったか。

明治末の時代まで安原は「名草郡」にあった。
名草山の麓に位置し、古代産鉄地だったようだ。



↓日前宮。その御神体は、日前神宮は日像鏡、
国懸神宮は日矛の鏡という2鏡である。
神宮皇后の先祖で、新羅から渡来したという
天日矛命との関係が、にわかに気になってくる。
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by utoutou | 2016-09-11 22:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(2)

六甲山と瀬織津姫 50 猿田彦大神

「六甲山は海神の砦と言いますが、この地で
 いちばん古い海神は?」と、語り部が聞いた。

住吉大神について度々書いたのを見て、何か
他に見たものを忘れていないかと、言外に…。

「それならば、猿田彦大神ですね」と
言おうとして、止めておいた。急がば回れ、
直感で言うよりも慎重に裏取りを試みようかと。
迷宮入り寸前の事件を扱う刑事のような心境で。



↓こちら神呪寺と、神奈備である甲山。
本堂屋上の火炎宝珠のあしらいが鮮やか。
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その本堂。手前右に「淳和天皇聖蹟」の石碑が、
手前左に「開山如意尼公領」の石碑が建っている。
が、それはあくまでも本堂落成(831年)の年号。
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時代は溯り(4世紀末)、神功皇后は甲山の頂上
に如意宝珠と兜を埋めて、国家平安守護のための
 祈願をしたと、甲山登山道の入口に標されていた。
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さて、
まさに神功皇后の朝鮮出兵(百済救援)の帰り、
難波に向かう途中、船がぐるぐる廻って難航した。
そして「住吉三神を祀れ」との神託があった。
というのが、「住吉大社=海神」の創建由来だった。

その住吉大社の近くにお住まいという方から、
先日、コメントをいただいた。
「住吉大社の地には、もともと、いまの摂社の
大海神社が鎮座していたと言われています」と。

住吉大社境内の東北に坐す大海神社の場所は、
もとは海に突き出た断崖だったと由緒にもある。

綿津見信仰の古い歴史を示す象徴的な話だ。
大海神社の祭神は、豊玉彦と豊玉姫。
その神籬は、海神である父とその姫のいた龍宮
として、古代海人の崇敬を集めたのだろう。

龍宮の主である綿津見神について、
『古事記』は、「安曇連等の祖神」と記している。
逆に「安曇連等は綿津見神の子・宇都志日金析命
(うつしひがなさくのみこと)の子孫なり」とも。

宇都志日金析命とは、猿田彦大神のこと。
沖縄・久高島では、二ライ大主(うふぬし)と
見られていたと私は考えた(記事はこちら)が、
その猿田彦大神が、ここ甲山に祀られていたとは…。



↓登山道の入口に、祠が並ぶ一角がある。
甲山稲荷大師(左手前)のほうは、左右に
白龍大明神・白菊大明神が合祀されている。
由緒は不明だが、稲荷(=鋳成り)ということは、
 甲山も古代は産鉄地だったということだろうか。
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猿田彦大神(白鬚大明神)の祠は、右(東)隣りに。
琵琶湖西岸(高島市)の白鬚神社に詣でたことが
あったが(記事はこちら)、祭神は同じ猿田彦大神である。
その右奥、小さな石祠には善女龍王が祀られている。
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割と新しい社だったが、ともあれ、
この地に海部氏と同族で綿津見神を奉斎する安曇氏
 とその末裔がいたことを暗示しているように思う。

安曇氏は北九州が本拠と言われるが、
神功皇后に随行した武内宿禰も同族と思われる。
この地で銅の採掘をしたという日下部氏も…。




by utoutou | 2016-09-09 05:27 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(4)

六甲山と瀬織津姫 49 海神の砦

鷲林寺では、多くの龍神に出会う。
境内に足を踏み入れたときは意外に思ったが、
六甲山は渡来海人族の聖地だったのだから当然か。


こちらは八大龍王。平成19年築ということで
 真新しいが、右奥の洞窟に龍王の古い住処がある。
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↓ 龍王の洞窟。役の行者が龍神を拝んだといい、
現在は3m入った地点に八大龍王が祀られているとか。
入口には、白龍大神、伍大国長天龍神・国龍大神
といった銘碑に参拝。白龍も祀られていた。
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鷲林寺は空海(774〜835年)が建立した。
さらに古く、役小角(634〜701年)も来た。
鷲林寺は古来の神々を護った僧たちの聖地でもある。



十一面観音が祀られる本堂から奥へ進むと石仏がズラリ。
左は空海が祀ったという白山大権現、そして、
中央が不動明王。つまり、菊理姫(瀬織津姫)を、
女神を刀剣を抱えた不動明王が護衛している?
ちょうど夕方。西日を背にやんわり立つ不動明王には
「勇猛」より、縄文の土偶にも似た「和」を感じた。
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不動明王の先にも、石仏が続いている。
写真左は栂尾(つがお)明神、中央は宮八大神など。
右は末廣大神・玉姫大神、御劔大神。さらに並ぶ。
石仏群は、地祇系の神仏が絶妙に混合している。
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本堂の右手には、新築という護摩堂と多宝塔がある。
護摩堂の本尊は、空海作と伝わる鷲不動明王という。
火炎の中に鷲が飛んでいる構図。やはり、
鷲の姿となった瀬織津姫を不動明王が守護している?
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空海の建立した鷲林寺はまた
六甲修験道のスタート地点という。↓若宮神社の近く
に、パノラマ、せせらぎ、両コースの標識があったが、
調べると、せせらぎコースを行くと六甲修験道に続く。
一説には、若宮神社の祭神は瀬織津姫という。
六甲修験道は、瀬織津姫の聖地を護る結界だったか。
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鷲林寺から観音(かんのん)道を歩いて下りる途中、
ほぼ東の方向に、神呪寺のある甲山が見えた。
ちなみに、六甲修験道の終着点は多聞寺。
その多聞寺は、六甲比命神社を奥宮とするという。
六甲山の東と西とに位置する真言宗の三寺。
三という聖数は、やはりオリオン星座が由来だろう。
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六甲山は、伊勢の伊雑宮と出雲大社を結ぶ線上
に位置する(大江幸久氏の六甲山資料より)という。

伊勢、六甲山、出雲。この三大聖地を繋いだラインに
ついて考え続けていたが、いまならそのことが分かる。

西の龍神から、東の太陽神へ、
つまり海の神から、天照大御神へ。
信仰改革の進んだ7〜8世紀に生きた僧侶たちは、
六甲山という砦で、封殺されゆく海神を庇護したのだ。 








by utoutou | 2016-09-02 23:11 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 48 空海の鷲林寺

 六甲比命神社への参拝をきっかけに、
南方系海人族の痕跡を求めて、はや半年。
50回まであと少しというロングランと相成った。
「六甲山を1、2回」の予定が、ここまで続くとは。

  語り部は言ったものだ。
「六甲山には、琉球の宝珠が隠されていると思う。
神呪寺の極秘本尊であり、空海作の如意輪観音像
の中か、六甲比命神社の周辺のどこかに…」
   
その宝珠は、琉球を出て日本列島のヘソにあたる
六甲山に居所を定め、日本という国体の元を造り、
やがて表舞台から消えた、琉球海人族の存在証明だと。

その一族は紀元前の時代から、南薩摩を本拠に
琉球諸島や大陸との間を航海して貝交易で活躍した
隼人族、後の日下部氏だと私は考えるようになった。
「六甲山と瀬織津姫」を追うと、摂津から丹後地方に
かけての随所に日下部氏が見え隠れするからだ。

昨日、語り部は言った。
「瀬織津姫は、豊受姫であり、大日孁貴であり、
撞賢木厳之御魂向津姫であり、龍宮乙姫なのですよ」

宝珠とはやはり…と、私は思った。
龍宮(琉球)乙姫から浦島太郎が受け取った
玉手箱に入っていた「琉球の玉」に違いないと。

実際、鎌倉時代末期の作という
『元亨釈書』は、次のように記している(要約・訳)。
〜淳和天皇の次妃・真井御前(如意尼)は丹州与佐
の出身。828年、空海に従い出家して神呪寺を建立。
これより前の825年、故郷へ里帰りした真井御前は、
龍宮から帰った浦島太郎から玉手箱を受け取った。
空海はそれを如意輪観音に入れた。〜

浦島太郎の玉手箱。おそらく、これが、
「六甲山と瀬織津姫」を探る最後のヒントだ。

キーパーソン・空海はまた、神呪寺から1.5kmの
至近距離の山中に鷲林寺(じゅうりんじ)を建て、
まるで六甲山に結界を張るように、修験道を作った。
それはまたどうしてなのか?




六甲山・鷲林寺(西宮市鷲林寺町)の本堂。
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鷲林寺本堂の右奥に立つ、弘法大師・空海。
訪れたのは5月、神呪寺本尊御開帳の前日だった。
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↓手水舎の大鷲。鷲林寺HPの由緒によれば、
〜 833年、淳和天皇の命を受け霊場を物色して
いた空海が廣田神社に泊まっていたとき、夢枕に
立った仙人からの指示で西の山へ向かったが、
道中、大鷲が現れて火炎を吹き邪魔をしたという。
そこで清水に浸した木の枝で大鷲を追い払い、
桜の霊木で十一面観音を彫り本尊として祀った〜
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↓荒神堂。
大鷲と化した麁乱荒神(そらんこうじん)を祀る。
説明板には次のようにある(要約)。
麁乱荒神は、神呪寺の開基伝にも登場するので、
両寺にとって大切な尊である。麁乱荒神とは、
8つの顔と8本の腕を持つ八面六臂の姿で、別名を
三宝荒神という。俗に「竃の神」としても信仰される。
なお、宝塚市の清荒神・清澄寺も同神である。〜
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空海は、
神仏習合により神祇信仰が行き詰まった9世紀、
瀬織津姫(撞賢木厳之御魂天疎向津姫)を
麁乱荒神(八臂弁財天)として、隠し祀ったのだろう。



















by utoutou | 2016-08-29 21:12 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)