1 元々は太子の祖父にあたる欽明天皇と、その第四皇子 ・用明天皇の別宮が置かれていたというから、いわば 代々の天皇に所縁の地。そこの厩戸で、散策中だった 間人皇后は厩戸皇子(572〜622年)を生んだという。 寺の建立自体は、皇子の生誕から数十年後になるが、 その寺がなぜ、「橘寺」と命名されるに至ったのか? (※未参観のため、画像は4travel.jp 様より拝借) ![]() 如意輪観音菩薩が祀られるという本堂前の幕にも橘紋が 見えており、古来、橘の木は植わっていたものだろう。 それゆえか、用明天皇の和風諡号は「橘豊日天皇」。 太子妃にも橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)がいた というその名を法隆寺に隣接する中宮寺で聞いて以来、 「橘」が無性に気になった。もしやアマミキヨ関連かと。 その理由は後述するとして、天皇家にとって橘とは何か? くだんの橘妃は、敏達天皇と推古天皇の第三皇子である 尾張皇子の娘という。皇女の名にもなぜ、橘の一字が? 私の参った神社では、誉田八幡宮(羽曳野市誉田) の拝殿前で橘の樹を見た。主祭神は応神天皇である。 ![]() 「右近の橘」と、相対して右手に「左近の桜」があった。 京都御所・紫宸殿(ししんでん)に倣ったものか。 その元を辿ると、それは渡来人の秦河勝邸にあったといい、 またしても聖徳太子に辿り着いてしまうのである。 ![]() ![]() ところで、「右近の橘」や鏡餅の由来とされるのは、 垂仁天皇が田道間守を常世の国へ遣わせたという故事。 非時の香菓(ときじくのかぐのみ)という不老不死の 霊薬を持ち帰らせたという話が記紀にあり、それが 「橘なり」と記されているが、どんな橘なのかは不明だ。 そもそもなぜ、田道間守は橘を探しに常世の国へまで 行ったのか。橘は上古から日本で自生する柑橘類である。 中国には漢時代から「橘井(きっせい)」の言葉がある ほど薬効が認められていたが、橘はこの国にもあった。 そのことは、 廣瀬大社(奈良県北葛飾郡)の縁起にも見えている。 〜崇神天皇九年、廣瀬の川の里長に御信託があり、 沼地が一夜で陸地に変化し、橘が数多く生えたこと が天皇に伝わり、この地に社殿を建て…(後略)〜 垂仁天皇は崇神天皇の次代であるから、田道間守は 別種の橘を探しに常世の国へと旅立ったことになる。 田道間守が十年かけて往復した常世の国とは琉球 ではなかったかと、私はかねてから考えていた。 琉球には月橘(げっきつ)という橘が野生している。 現代の沖縄では石灰岩地帯の生垣や庭でも見かけるが、 分布範囲は東南アジア、中国南部、台湾、沖縄、奄美。 月夜に芳香を放つ常緑小高木の柑橘類で実は赤い。 別名「カラタチバナ」または「シルクジャスミン」。 沖縄の方言では、「ギキチャー」と呼ばれる。 (※画像は南城市「ガンラーの谷」ブログより拝借) ![]() 月橘は霊力を発するとも言われ祭祀の供物になるほか、 薬草としては、胃腸カタル、腹痛、下痢に効くという。 その効用はヤマトの橘と大差ないように思われるが、 大きな特徴は、葉が3〜9枚ある「羽状複葉」ということ。 ↓図の右上の「奇数羽状複葉」が、月橘の形状にあたる。 (※画像は「デジタル大辞典」より拝借) ![]() なんと、葉の付き方は「生命の樹」にそっくりだ。 エデンの園の中央に植えられていた生命の始まりの樹。 その実を食べると、神のごとき永遠の命を得られると いう聖樹を、田道間守は持ち帰ったのではなかったか。 垂仁天皇の崩御には間に合わなかったけれども。 私には月橘(ギキチャー)が古事記で最初に登場する 天地創造の神=天御中主神に思えてならない。 橘寺で生まれた聖徳太子は、天御中主神の末裔か…? ▲
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| 2017-10-30 13:28
| 瀬織津姫
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聖徳太子の膳妃の出自が分かったところで、太子とその母 ・間人皇后を探りたいと思っていたが、それはさておき…。 沖縄へ行ったので、「てだ御川(うっかー)」を訪れた。 南城市知念。斎場御嶽から国道331号線を車で8分 ほど北上した地名岬に位置する御嶽。沖縄本島の東海岸、 太平洋に平たい久高島と、目を転じると斎場御嶽を望める。 (沖縄県は)台風21号一過の午後、海も空も澄んでいた。 ![]() 「てだ御川」と、案内板が立っている。 〜「テダ」とは太陽を意味する言葉で、ここでは琉球 国王を指します。国王が麦の初穂祭に久高島を参拝する 途中、この地で豊かに湧き出る水をいただき休息をとり ました。そして海上の無事を祈ったのです。テダ御川は 東御廻りの聖地として今でも人々から崇められています〜 (※東御廻りとは…南城市のサイト) ![]() 訪れたのは、他でもない聖徳太子が頭にあったからだ。 語り部はかつてこの地で聖徳太子の姿を霊視したという。 太子らしき貴人が船から降り、上陸したのを視たと。 まさか…と何年も思ってきたが、今回はふと足が向いた。 案内板の立つ駐車場に車を置いて、300mほど歩く。 透明度の高い珊瑚礁湖は、人気の撮影スポットらしい。 いつの台風で飛んできたのか、巨岩が道を塞いでいる。 ![]() 内部には牛型の石(石神)が祀ってあるというが、一説に、 その石神とはスサノオの本地「牛頭天王」の秘仏だという。 琉球の神女古伝ではスサノオを「天王ガナシー」と呼ぶが、 四天王寺で参って以来、この祠が妙に気になっていた。 石神は、太子の真像を探る手掛かりになるのではないかと。 ![]() 天王尊と牛頭天王と、てだ御川に置かれた「牛頭の石」。 不思議な巡り合わせを思いつつ進むと、拝所の前に出た。 琉球国王にゆかりの御嶽と伝わるが、上古に遡る歴史が あることは、「東廻り」という神事からも容易に知れる。 ここは琉球の始祖・アマミキヨが住んだという聖地のひとつ。 ![]() そして目を開けると、驚いて引っくり返りそうになった。 石碑に、「平成2年2月22日改修」と刻まれている。 2月22日は聖徳太子の命日とされる日である。 これは偶然の一致か暗号か、はたまたメッセージか…? ▲
by utoutou
| 2017-10-26 12:08
| 瀬織津姫
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太子と共に太子廟に眠る膳妃(かしわでのきさき) は、膳傾子(かしわでのかたぶこ)という豪族の姫。 4人いたという聖徳太子の妃のなかで、膳妃こと 膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、太子と 合祀されたのは、寵愛を得たという理由だけなのか? また逝去の時期が近かったという理由だけなのか? それを探るために、叡福寺の印象を振り返ってみる。 叡福寺南大門。 聖徳廟の扁額が掛かるこの門に立ったときから、 磯長墓へのアプローチが始まっているように思えた。 叡福寺は622年、太子廟を守護する目的で推古天皇が 建立したというが、その123年後の745年、聖武天皇が 伽藍を建立したと伝わる。123年後とは何やらゴロがよい。 ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2017-10-21 10:42
| 瀬織津姫
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10/13(金)夜、NHK『歴史秘話ヒストリア』で放送 の『聖徳太子の棺 伝説のその先へ』を偶然観て驚いた。 数日前に訪れた叡福寺(大阪府南河内郡太子町)を映す VTRに井上あさひアナがいた。(↓テレビ画面を撮影) ![]() 私が訪れた日の叡福寺(聖徳皇太子磯長御廟)。 晴天だったが、町の循環バスから降り立ったのは唯一人。 ![]() ![]() 叡福寺境内から石段を登り、二天門を通ると太子廟がある。 宮内庁による案内板(推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓)も。 左に菊紋、手前に賽銭箱とお香立て。お線香は200円だった。 ![]() 御廟正面の扉から10m石段を上がると横穴式石室とか。 ![]() ![]() 一番奥に見えるのは、母・穴穂部間人皇后の石棺、 前列左には妃の膳大郎女を、右に聖徳太子の棺を安置。 太子と妃の棺は絹を貼合した乾漆で作られたが、制作には 1年かかかったので、「太子は2度葬られた」ことになる。 ![]() その謎解きを、猪熊兼勝氏が語っておられた。 没後、太子を見直す動きが生まれ、棺は作られたのだと。 その後も蘇我入鹿暗殺に始まる大化の改新、そして 壬申の乱と混乱は続き、多くの人命が失われたとき、 「聖徳太子」の名が生まれ、国を再生するシンボルとなったと。 棺の材質である乾漆は最高級の絹だったという。いっぽう 斉明天皇と藤原鎌足のは麻製で、その違いが太子信仰を 物語っている…など、まさに秘話満載のヒストリアだった。 ところで、太子妃4人のうち この膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、なぜ こうして太子と母との三骨で同葬されることになったのか? 再生のシンボルなら、太子だけのほうが相応しいのでは? 番組を観終えて、そんな素朴な疑問が湧いたとき、 思い至ったのは「磯長(しなが)の里」という地名だ。 また、龍田大社(奈良県生駒郡)の祭神・志那都比古神 志那都比命の「志那」も、「息が長い」との意味という。 風神や「息が長い」神徳から連想されるのは古代産鉄だ。 「聖徳太子」には、息長氏が隠れているのではないか。 さらに息長氏には、沖縄が隠されているかもしれない。 「息長と沖縄は同義」とする説があり、発音も似ている。 ▲
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| 2017-10-16 15:46
| 瀬織津姫
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![]() 先日、四天王寺七宮を巡って「北斗七星」を見たが、 それは同時に、「北極星(天御中主神、琉球では、 にぬふぁー星と呼ぶ)信仰を示していると感じられた。 七宮では「鎮宅さん」とか「豊受大神」など、 神名は違えど、天御中主神が祀られていたからだった。 ところで、「七」という整数は、聖徳太子が編纂した という先代旧事本紀に見える「六家+天皇家=七家」を その六家とは「甲羅を持つ6匹の亀」と確信したのは、 やはり先日、四天王寺で、何度もの亀に遭遇したからだ。 昨日10月10日、 日の出の時刻(5時59分)の四天王寺・六時礼讃堂。 五重塔や金堂のある中心伽藍の北に位置している。 ![]() ![]() ![]() 亀井堂(右)には次々と「お経木流し」する人が訪れる。 ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2017-10-11 12:37
| 瀬織津姫
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四天王寺を守護鎮守するという七宮を巡り歩いた。 四天王寺七宮が、七寺でなく、なぜ神社かについては 諸説あるようだが、ともかく聖徳太子による建立で、 四天王寺と共に創建されたと神社の由緒が伝えている。 七宮を巡り終えて登ったあべのハルカス展望台からは、 こう見えた(上が北、中央★が四天王寺、赤線は加工)。 ![]() ⑤久保神社 ⑥小儀神社 ⑦上之宮神社 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ▲
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| 2017-10-06 21:39
| 瀬織津姫
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四天王寺境内の東端に置かれた謎めいた小祠を 休憩所で頂戴した境内地図プリントで見ているとき、 ロビー中央に祀られている聖徳太子摂政像が光った。 午後1時。光源は太子像の上にあった。光を注がれ、 お香の煙が身体を包むベールのようにたゆたう。 四天王寺は文字通り寺だが、聖徳太子が神に見えた。 ![]() 救世観音菩薩は聖徳太子の写し身と言われる。実際、 境内の随所で太子信仰のメッカらしい煌めきを感じた。 何かを覆い隠すための煌めきに感じられなくもないが。 ![]() ![]() 太子殿奥殿の前に、左甚五郎が彫刻を施したという 「太子殿猫の門」があるが、これまた意味シンな印象。 ![]() 眠り猫のように眠れと鎮魂しているのか…と思う いっぽう、眠りから覚めるなよと封印するようにも? ![]() ![]() ところで、四天王寺の山号は荒稜山(あらはかさん)。 旧地名は荒墓邑で、近くに茶臼山古墳(被葬者不明) があるところから、この地も古墳だったと思われる。 語り部に意見を聞くと、こうアドバイスされた。 「元々は、ここに磐座があったように見えますね。 四天王寺の近くには、神社が7つありませんか?」 調べると、寺を北斗七星の形に取り巻く七宮がある。 そこに、四天王寺建立の真相を知る手掛かりがある? なぜなら、物部氏が奉斎したのは日月星の三位一体。 それは記紀において抹殺された、いわゆる星信仰。 つまり、四天王寺の真の建立者は物部なのか? あるいは、聖徳太子自身が物部だったのか…? ▲
by utoutou
| 2017-10-03 13:38
| 瀬織津姫
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