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六甲山と瀬織津姫 161 琉球弁財天

京都では真言宗総本山・東寺(南区九条町)へも。
ちょうど国宝・五重塔の初層内部が公開中だった。
九条通りの南大門から境内へ入った。
正面は金堂、その奥に講堂と食堂が一直線に並ぶ。
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境内入って右(東)、五重塔と八島社の鳥居が
ミスマッチする景観には、いつもながら惚れ惚れする。
祭神は空海が崇めた地主神とも大己貴神とも言われる。
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五重塔の内部を拝観後、大師堂近くの三面大黒堂へ。
実はこちらが、この日、東寺を訪れた主な目的だった。
三面大黒天は拝観できないというが、ともかく目指す。

三面大黒天の説明板が立っていた。要約すると…。
大黒天(中央、大地の神)、毘沙門天(左、財宝の神)、
弁財天(右、インドでは河の神)という三体の天神
が合体したものが三面大黒天で、お大師様の作である。
我々の誓願を満たして、無上の大功徳の霊験がある。

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三面大黒堂に足が向いたのは、ある「事件」が発端だ。
関西への移動中にネット検索していて、琉球の
弁財天についての「新説」が拡散していると知った。

曰く、琉球王朝時代の聞得大君御殿には、三面六臂の
弁財天を描いた掛軸が祀られ、聞得大君が崇めていた。
それは三面大黒天とも考えられるという説もある、と。

当ブログ記事「弁財天は聞得大君の先祖」にリンクも
貼られており、「これは事件」と思わずにいられない。
天御中主神と七人の日巫女」との2本の関連記事とは
 別のところで、琉球弁財天が一人歩きを始めた模様。


さて、東寺の秘仏・三面大黒天はこんなお姿である。
大師堂でお札を求めたが、弁財天はよく見えない。
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写真集『東寺の天部像 東寺宝物館』から拝借した
三面大黒天立像(江戸時代)。(解説を以下要約)。
☆本来、(三面)大黒堂に祀られていた。
☆秘仏で六十年に一度ご開帳される。
☆大黒天・毘沙門天・弁財天が合体した「出世大黒」。
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いっぽう、いわゆる「琉球弁財天」として拡散している
女神の像は下のイラスト。 ↓ 三面六臂で、太陽と月、
蛇と宝珠を手にしている。題名は『天孫神の像』。

イラストは『江戸期琉球物資料集覧』より拝借。
でも閲覧可能だが、原典は江戸の戯曲家・大田南畝の著
『琉球年代記』(天保3、1832年)付録「琉球雑話」。
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ただし、大田南畝は、この「天孫神」が聞得大君御殿
に祀られていたとは記していない。いっぽう↑解説文
には「善興寺」と、具体的な寺名も見える。

(以下要約)
☆善興寺に天孫神なる三面六臂の女神像があった。
☆これは天神という神、シネリキヨとアマミキヨの
長女クンクンなり。土俗あやまりて、これを弁財天
と云うのであれば、像は図のごとし。

「土俗あやまりて」の意味は、天神=天孫神
=弁財天という「通説」を誤りだと言っているのか。
いずれにしろ、確かに三面だが、大黒天ではなさそう。
 
三面六臂の弁財天を崇める琉球の「弁財天信仰」
については、冊封使による見聞録がいくつかあり、
南畝は、『東西洋考』『中山伝言録』『琉球国志略』
を参考にして、天孫神の記事を書いたようだと、
『史料に見る琉球の弁財天信仰(南島史話42号)』
(真喜志遥子・著)は記している。が、こちらでも、
聞得大君御殿に祀られていたとの記述は見当たらない。

ネットで「天孫神」の神名と画像だけが拡散され、
「聞得大君御殿に三面六臂の弁財天が祀られていた」と
の新説が自然発生、やがて一人歩きするに至ったものか。
というのが、「琉球弁財天」を追跡してみての結論…。


実は勢いで(笑)、大阪・四天王寺も再訪した。
三面大黒天を本尊として祀る三面大黒堂がある。
こちら社務所で見た木彫りのレプリカ三面大黒天。
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さて、関西から戻り、「琉球弁財天」こと「天孫神」
を思い出していると、語り部経由でメッセージがきた。

「天孫神でなく天祖神を追いなさいということです」
「天祖神…ですか?」
「沖縄では、大神(うふがみ)とも呼ばれる神です。
ヤマトの天照大神のモデルになった太陽神でもある」

また、ややこしい話になってきた。私は聞いた。
「では、天孫神とはどんな神様だったんでしょう?
左手に太陽、右手に月を持っている女神って…」

語り部も聞いた。
「善興寺は何宗のお寺で、どこにありましたか?」
「真言宗ですね。天使館(冊封使の宿泊所)の近く。
現在の那覇市西消防署の南側にあたりますかね」
「それなら、冊封使の記録しかないのも分かりますね。
天孫神とは、三面大黒天と荒神と弁財天が習合した姿
 だと思います。あの辺りは、荒神信仰が盛んでした。
  私が見た扁額の三宝荒神は太陽と月を持ってましたよ」

つづく…。









by utoutou | 2018-02-25 14:22 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 160 神泉苑の善女龍王

関西へ出張したので、神泉苑(京都府中央区)へ。
 千年の都・平安京、その最古の史跡。
桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都(794年)した際、
造営されたという天皇のための広大な庭園(禁苑)。
縮小され、往時の十六分の一の広さになっているとか。

完成したのは800年頃、二条城・大内裏に南接。
太古からこの地にあったという大池(神泉)は、
法成就池(ほうじょうじゅいけ)と、朱の太鼓橋は
法成橋(ほうじょうばし)と、命名されている。

どちらも、空海が「祈雨の法力」を成就させて
三日三晩、雨を降らせ干魃を救ったという、天長元年
(824年)の有名な事績「天長の祈雨」に由来する。
東寺の空海vs.西寺の守敏の「法力争い」とも呼ばれる。

「天長の祈雨(雨乞い)」で空海が勧請したのは、
北天竺の北にある無熱池(むねつち、現在のチベットの
マナサロワール湖に比定される)いたという善女竜王。
(以下、栞より抜粋)
〜善女龍王は大師の懇志に感じて池中より大蛇の頭上
に金色八寸の御姿を現し、慈雲たちまちにして起こり、
甘雨の降ることはあたかも天瓢の水を注ぐが如く、
旱天(ひでり)の災はたちどころに解消したという 〜



女性ふたりが、法成橋をゆっくりと渡って来た。
願いごとを強く念じて、南(左)から橋を渡り、
そのまま善女竜王社(右)に詣ると願いが叶うという。
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善女龍王社は、法成就池に突き出るように鎮座。
ちなみに池の南にある本堂の御本尊は、聖観音菩薩。
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そう言えば、
「善女竜王とは龍宮乙姫ですね」と、語り部は言った。
室生寺の龍穴に住む善女龍王について話していたときに。

はたして異名同体の女神なのかと、そそくさと
ググってみると、まず、善女龍王とは清龍権現と出た。

空海が阿闍梨と出会った唐の長安・青龍寺の守護神で、
空海の帰国に伴い来臨してから、「清瀧」権現となった。
飛来してからは水神信仰と習合して、空海の祈雨修法
における祭神となったという伝承もあるようだ。


清瀧権現は、私の住む東京八王子の高尾山にも祀られる
婆加羅龍王(海神)の三女という。高尾山では「青龍」
権現と書くが、まさに善女龍王は海神の娘・龍宮乙姫。
高尾山ロープウェイ駅名・清滝の由来は「清瀧」らしい。
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善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女。
さらに、清瀧権現の化身は如意輪観音というから、
女神の系譜の混沌とした正統を見る思いがする。

↓恵方社に祀られる歳徳神(としとくじん)もまた
調べると、婆加羅龍王の第三王女、つまり善女龍王。
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では、
善女龍王と弁財天の関係はと↓弁天社の前で栞を開く。
「元はインドの大河の神・サラスバティ」とあった。

いっぽう、清瀧権現は市杵島姫であるという説もある。
それならば、善女龍王=清瀧権現=龍宮乙女=
 如意輪観音=歳徳神=弁財天=市杵島姫(瀬織津姫)。
記紀の成立と天照大神の誕生から百年を経て、
抹消された瀬織津姫はかくも隠され多神化していた。
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空海の「天長の祈雨」には、ひとつの逸話が潜む。
善女龍王は、龍の頭に乗って池から現れただけでなく、
持てる龍王の宝珠を空海に授けたのだという。
(空海による『御遺告』の注釈書、『御遺告釈疑抄』)

なぜ宝珠のくだりは秘せられたのか。
善女龍王(龍宮乙姫)の宝珠を空海が得た824年、
龍宮から浦島太郎が帰還したと『元享釈書』等は記す。

遡って、浦島太郎が龍宮へ行った雄略22(478)年、
丹後の豊受大神は伊勢外宮に遷座したというが、
海部の伝承において、豊受大神=天御中主神である。

いっぽう、空海が唐から持ち帰った北辰信仰において、
北辰=龍神=北極星=天御中主神。善女龍王が空海に
 授けた宝珠は、海神族の魂の甦りを意味していた。
時勢がそれを許さなかったのだろうと思う。

by utoutou | 2018-02-18 09:58 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 159 空海の宇賀弁財天

「宇賀弁財天は、どこに祀られていますか?」
空海の出自を巡るあれこれを考えていたとき、
語り部から、そんな電話がきた。
「えーと、各地のお寺に祀られているでしょうけど…」

彼の脳内には、宇賀弁財天の像が現れているらしい。
頭頂に鳥居を戴き、蛇に巻かれた翁が顔を出して
いる弁財天。あの翁が宇賀神らしいが、語り部は、
「その宇賀神とは、どんな神?」と、問いかけている。


電話を切ってから、
「こちらが宇賀弁財天ですよね」と、画像をメールした。
興福寺(奈良市)の三重塔に祀られているという
「窪弁財天 坐像」をネット上から探し出して…。
※興福寺HPの国宝画像は転載不可ということで、
興福寺国宝特別公開展('11年)のポスターより拝借。
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窪弁財天は、何年か前、語り部に那覇市の首里末吉の
拝所に掛かる「弁財天と7人の日巫女」の掛軸を教えて
もらったときから、よく似た弁財天として記憶していた。


首里の掛軸は、聞得大君御殿にあったと伝わる掛軸と
同じ絵柄で、おそらく現存する最後の一幅と言われる。
あのとき、語り部は言っていた。
「弁財天の頭上の男神は、天御中主神に視えます」と。
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そんなわけで、興福寺の窪弁財天像を思い出した
 のだったが、この弁財天は空海にも所縁が深い。

興福寺のHPに以下の解説があった(要約)。
☆南円堂建立のとき、空海が完成を祈り天河弁財天
に参籠した際に、宇賀弁財天を感得した。
☆そこで、興福寺に窪弁財天として勧請した。
☆毎年7月7日に特別公開され、
法要が行われる。


ところで、興福寺は、室生寺とも所縁ある寺である。
室生寺の草創に関わったのは、興福寺の僧侶だった。
そして、室生寺創建のきっかけは、皇太子の山部親王
(後の桓武天皇)の病気平癒のための祈願だった。
桓武天皇は、後の淳和天皇の父…。

ここのあたりから、何かザワザワと胸が騒いできた。
室生寺と言えば、龍穴、龍神、空海の如意宝珠…。
弁財天が持つ如意宝珠は「龍より出る」と言われる。
どうやら胸騒ぎの元は、その龍神にあるらしい。

そう言えば、この時代はひどい干魃が続き、
空海は国家鎮護のため雨乞いの祈祷を繰り返したと
いうが、ことに有名なのは、淳和天皇の勅命で行った
神泉苑での祈雨である。ときは天長2年(824)年、
空海は北インドの善女竜王を勧請して国中を喜ばせた。

824年…。それは浦島太郎が龍宮から帰還した年。
この一致するタイミングは…そうだったかのか。
空海の雨乞いの逸話は、龍神の甦りを暗示している?
そして、龍神とは天御中主神のことではなかったか…。


by utoutou | 2018-02-09 18:47 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 158 続・空海の如意宝珠

四天王寺で空海の修行像を仰いだときの印象は、
数ヶ月ほど経ったいまも、胸に刻まれている。


石鳥居の西門を見通す極楽門の南に、それはある。
空海は延暦6(787)年、この四天王寺に住み、
難波の海に沈みゆく夕陽を拝して、西方極楽浄土を
観想する日想観(じっそうかん)を修したという。
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修行像の空海は錫杖を持っており、その錫杖に
結ばれた紐は、手前の地面に立つ錫杖に繋がっている。
こちらは触ることができ、振るとシャリリンと鳴った。
空海の錫杖も共鳴しているように感じられる仕組み。
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鳴らし終えて振り向くと、目の前に「一回一誦」と
いう装置があり、輪には般若心経が刻まれていた。
これを一回回すと般若心経を一回唱えたことになる。


視線を上げると、大木に半ば隠れている五重塔と、
その左に金堂の屋根が見えた。そのときだった。
空海は物部守屋と向き合っている…という気がした。
実際、五重塔と金堂の間の東西軸の先に守屋祠はある。
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その配置が意図されたものかどうかは知らないが、
空海と物部守屋の関係は、やがて六甲山の瀬織津姫
に繋がっていくのかもしれないと、ふと予感した。

空海の父方は、讃岐(香川県)の佐伯氏だが、
空海の母方一族は、阿刀氏(あとうじ)といい、
物部氏と同祖の伝承を持つ古代氏族だった。

跡部神社(現・大阪府八尾市亀井町)の鎮座する
河内国渋川郡あたりを本拠としていたと言われる。

跡部神社。現在の祭神は天照皇大神、阿刀大神、
八王子大神だが、創祀は饒速日命だったと伝わる。
写真は「なにわ大阪を作った100人」より拝借。
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阿刀氏(跡部首)は饒速日命の天の磐船の船長
・天津羽原を祖とし、大和川の要所で水運を掌握した。
(※写真はNHK『歴史秘話ヒストリア 聖徳太子の棺』
  太子道のコーナーより拝借)
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空海の母方にあたる阿刀氏について、谷川健一氏
は『古代の地名』に次のように記した。(要約)

☆阿刀という氏姓の元は安曇で、朝鮮半島との
海運を掌握した安曇氏の本拠は志賀島だが、移動
するとともにその姓も変化した。奈良や近江では
安堵(あど)に、難波や大和では阿刀になった。
☆そこに部がついて、阿刀部(あとべ)になった。
☆天の磐船の船長は阿刀部首の祖(※天津羽原)
であり、梶取りは阿刀造の祖(※天津麻良)である。
☆大和川の水運も、阿刀氏(安曇氏)が握っていた。
☆蘇我氏と戦った物部守屋は、逃げて跡部に行った。


すると、蘇我馬子が物部守屋を攻めた所と言われる
「阿都の館」は「阿刀の館」とも考えられるわけか。

物部氏とはもちろん、阿刀氏と安曇氏が同族という
ことは、如意宝珠を考えるうえで、かなり重要だ。

例えば、三韓遠征した神功皇后に「珠」を授けたのが
安曇磯良だったのは、綿津見神の子孫だったからだ。
「珠」とは、龍宮の龍神から生まれ出たものだった。

それならば、
空海が唐で恵果阿闍梨から如意宝珠を授かったのも、
安曇氏同族の血を受け継いでいたからではないか…。


by utoutou | 2018-02-04 12:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)