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六甲山と瀬織津姫 165 スサノオの御霊

綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)の北に位置する
桜ヶ丘(神岡)からは銅鐸14個と銅戈7本が出たという。
何度か六甲山に行き神社や磐座を歩いたが、銅鐸出土地
に足を伸ばしていなかったのは、ちょっと残念…。

さて、六甲山麓における銅鐸出土地を知るなかで、
祭祀的な、あるいはアマミキヨ的な視点から、興味
を抱いたのは、銅鐸の模様や埋蔵場所の比較だった。

例えば、桜ヶ丘銅鐸の出土地から坊主山(376m)を
挟み約2kmの東には渦が森という銅鐸出土地があるが、
それぞれの銅鐸に刻まれた模様はかなり違っている。
桜ヶ丘は「人や家」など、渦が森は全面に「渦」が並ぶ。

反対に、出土地の標高は240mと同じ。坊主山の
東西に埋蔵されていた2種類の銅鐸は、何を語るのか。
私には、高地性集落の「輪」があったように思えるが、
では、集落(国々)を束ねた首長は誰だったのか?
など、興味は尽きない。


渦が森には、本住吉神社の奥宮に参ったことがある。
地元のSさんのご案内で、磐座ツアーの途中で参拝した。
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この本住吉神社の奥宮からは瀬戸内海を見下ろせる。
実際の出土地は少し低地になるらしいが、眺望は良好。
桜ヶ丘銅鐸も同じような眺望の集落に埋まっていたのか?
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いつだったか語り部が言っていた話が甦る。
「六甲山では、海人族が各地に集落をつくっていたと、
またそれぞれに祭祀を司った神女がいたと思います」
つまり、それが瀬織津姫の原像なのだろうと。

吉野裕氏もその著書『風土記世界と鉄王伝説』で、 
そうした巫女たちを「鉄のシャーマン」と呼んだ。

〜倭王卑弥呼が大きな祭祀権を持ち得たのは、彼女が
たんに有能な高級巫女であったというようなこと以上に、
何よりもまず鉄の生産の支配力を左右しうる巫女、
いわば〈鉄のシャーマン〉であったことと深く関係
しているからだろう…(中略)…彼女の巫術のおかげで
鉄(あるいは銅)もよく作ることが出来…その面影は
神功皇后伝説のなかに比較的によく生かされており、 〜

神功皇后の系譜を遡れば、息長水依姫に行きつくが、
さらに遡れば、天御影命、天津彦根命の名が浮かぶ。
天御影命の亦名は天目一箇神、まさに鍛治神なのである。

そして、綱敷天満神社の祭祀を司ったのも、
天津彦根命の代々の子孫と、由緒に記されている。
〜社伝に依りますと「茨城国造となられた天道根命が
祝詞して、竜神岡の天神山に祖神・天穂日命と別雷神
を斎き祀られたのに始まり、天津彦根命に伝えられ、
子孫代々鎮祭す。」とあります。〜

天御影命の神名は、地名・御影の由来かもしれない。


そんな天御御影命の話をしていると、語り部が言った。
「綱敷天満神社の綱打神事に使うという大綱を巻いた
鳥居ですけど、私にはヤマタノオロチにしか見えない」
「六甲山の各地にいた海人族が祀っていた神だと?」
「はい、そうです…」
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天御影命がその霊力を継いだ「神の名はスサノオ
だと、語り部はこれまでも何度か言っていたものだが、
確かに8本の矢が刺さる大綱は、八岐大蛇に見える。
六甲山の海人族を束ねたのはスサノオの御霊(みたま)?



by utoutou | 2018-03-26 20:24 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 164 銅鐸を崇める神社

綱敷天満神社(灘区御影)の社殿はどこを向いている?
阪急電車の御影駅からgoogle mapを頼りに南西方向
に歩いて ↓ この裏門というか、裏参道に着いたので、
六甲山を向いているのは分かったが、さてピンポイントは?
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鳥居を潜って境内に入ると、拝殿と本殿の横に出た。
写真右端にチラッと写るコンクリートは、高架道路である。
社殿の向こうを流れる石屋川の上に掛かっているようだ。
その石屋川は六甲・坊主山を源流として南へと流れている。
すると社殿は、高架道路と並行して建っていることになる。
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改めて地図で、高架道路と神社の配置を確認すると、
やはり社殿は、銅鐸出土地の桜ヶ丘を向いている。
私たちが参拝すると銅鐸のクニを拝していることになる。
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由緒にも、「銅」と縁の深い神社だと記されていた。
【歴史】
〜覚美鄕(かがみのさと)(記・和名抄)御影の起こり
は、古代この辺りに銅細工に関わる技術者集団
「鏡作部」がいたと推測されることに由来します。
→「社宝の古い御神体には銅塊が祀られていた」〜

また【鎮座地】は、中世までは山の上だったという。
〜御影町北部の山麓は往古、竜神岡と呼ばれ、その中
の天神山(現・御影山手)の荘厳な祭壇地に太古は祭祀
されており、この地域一帯の総鎮守でありました。〜

それにしても、この地に「鏡作部」の集落があったとは。
往古の鏡は、銅にスズや鉛などを加えて作られたという。
鏡作部の祖神は八咫鏡を造った石凝姥神(いしこりどめ)、
紀伊国一宮・日前神宮・国懸神宮の祭神である。

しみじみと、
語り部のあのときの見立ては正しかったのだと振り返る。
琉球を出た古代海人族は、紀伊から六甲へ移動したと思う
と語り部が言い、そのことをブログに書いたのは1年半前。

それを「ヒミコの鏡」など一連の記事にしたのだったが、
当時、石凝姥神を祖神とする一族と、一族の六甲山に
おける居住地を、探し出すことはできなかった。


いまに残る神事にも、その人々の信仰が偲ばれる。
「綱打神事(つなうちしんじ)」は↓こちらの鳥居が舞台。
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鳥居をズームアップすると ↓このような仕立て。
注連柱を巻く大綱は龍、刺した8本の矢は八色雷公を表す。
 右端は龍神の頭、左端は尻尾…すると、これは八岐大蛇か。  
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由緒から、【綱打神事】を以下に要約してみる。

☆この神事は、別雷大神縁起に伝わるもの。
 ☆天道根命の旧記に基き、後鳥羽院の時代より開始した。
☆注連柱全体が祓具であり、諸々の罪穢れを祓い浄める。
☆ここを潜り抜ければ、1年間無病息災に暮らせる。
☆現在でも、氏子・崇敬者の手で毎年続けられている。
☆「かみなり神事」とも呼ばれ、1月8、9日に斉行する。


綱打神事を伝える縁起に残る別雷大神とは、
賀茂別雷大神(かもいかづちおおかみ)のことである。
その歴史ある神事が、天道根神命の旧記に基づいていた。

神事に名を残す別雷大神は、賀茂氏の祖神である。
そして天道根命は、紀氏の祖神である。両氏の
痕跡が、銅鐸出土地のわずか1.5㎞南に残っていたとは…。


by utoutou | 2018-03-19 13:31 | 瀬織津姫

六甲山と瀬織津姫 163 役小角

阪神神戸線・御影駅で降りてから徒歩10分ほど。
綱敷天満神社(神戸市東灘区御影)を訪れたのは、
もはや旧聞に属するが、関西に滞在していた1月中旬。

あの頃は、聖徳太子ゆかりの「斑鳩の里(記事はこちら)」
について書いている最中だったが、頭の中にはいつも、
聖徳太子は奈良時代の呪者・役小角や空海と共に在った。

時代や身分は違えど、いずれも歴史上の「著名人」。
六甲山に縁故の深い人物というところが共通点だ。

昨年の記事「海神の砦」にも書いたことだったが、
空海(774〜835年)が建立した六甲山・鷲林寺の
地には、役小角(634〜701年)も訪れていたという。

役小角は、甲山の南の目神山で弁財天を感得し、
 六甲修験道を開基、奈良・天川近くの洞川に住む
 四鬼氏を唐櫃に移住させて、六甲山を守護(掌握)した。
 唐櫃の多聞寺は、六甲比命神社周辺を奥の院としている。


いっぽう、
こちら綱敷天満神社には、聖徳太子が四天王寺を建立
した際、礎石用に御影石を切り出したとの由緒がある。
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聖徳太子・役行者・空海、海神系と言われるこの聖人
たちは、揃いも揃いなぜ六甲山で女神を感得したのか。
神功皇后が廣田神社に瀬織津姫を祀ったという事績
よりもはるか昔の縄文・弥生の時代、この六甲山には
一体どんな人々が生活し、どんな祭祀を営んでいたのか。

その祭祀の中心に、おそらく原初の瀬織津姫がいる
…と、実はかねてから考えていたのだった。


綱敷天満神社の祭神は、略記パンフレットによれば、
菅原道真大神、別雷大神、倉稲魂大神、天穂日命。

菅原道真との所縁は、次のように記されている(要約)。
☆菅公は、讃岐国守として下向された折に参拝した。
☆同じく天穂日命の子孫でこの地を治める山背王に会う。
☆太宰府に左遷のみぎりにも立ち寄ったが、
山背王は石の上に綱を敷き菅公を迎えたと伝わる。
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本殿の北東に、天神社という小祠があった。
祭神は別雷大神、聖徳太子。神徳は厄除開運・鬼門方除。
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いっぽう、境内の北西には草壁稲荷大明神が鎮座。
「草壁」は「日下部」に通じ、丹後や但馬の国では鉱山開発、
主に銅の採鉱により、抜きん出た豪族となったようだ。
日下部氏は古来、ここ摂津西部でも活躍していたのか。
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草壁稲荷大明神の横には、松尾社が鎮座している。
祭神は、大山咋命、金山彦命、住吉神。
金山彦命が祀られる以上、ここには鉱脈があったようだ。
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さらなる手掛かりを求め、スマホで地図を開いてみる。
神社から北へ、1.5kmほど石屋川沿いに遡ると、
神戸市灘区桜ヶ丘町に着くが、なんと六甲山の南斜面
にあたるその地から、銅鐸が出土しているのだった。

銅鐸…そうだったのか。
銅採掘、日下部氏、御影駅と連想して思い至ったのは、
やはり御影駅の最寄りに鎮座する弓弦羽神社である。
祭神は熊野大神、そのシンボルは八咫烏…。

八咫烏に化身したのは賀茂角身命を始祖とする一族。
そして、賀茂氏は役小角の出自である。
また、賀茂氏は銅鐸祭祀者だったという説がある。
役小角と六甲山は、銅鐸を通じても関連していたのか。









by utoutou | 2018-03-13 10:03 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 162 続・琉球弁財天

那覇の善興寺に祀られていたという三面六臂の仏像。
真言宗護国寺の末寺・善興寺は冊封使の宿泊所であり
迎賓館だった天使館(那覇市東町)の近くにあった。

そのためか、「仏像は弁財天」とする册封使による
善興寺の目撃録がいくつも残っている。(※参考 :
真喜志遥子著『史料に見る琉球の弁財天信仰』)


「琉球の弁財天は六臂で、日と月を持っている」
と記したのは、1683年に来琉して『使琉球雑録』
  などを残した冊封使の汪楫(おうしゅう)。 

ちなみに、同じ尚貞王の時代の辞書『混効験集』
序文にも「我朝は神国、御本地は弁財天なり」と。

この弁財天の呼称が、「天孫神」とされた最初
は、冊封使・周煌(しゅうこう、1756年に来琉)
の時代のようで、「善興寺の仏堂には、不動王並び
に、三面六臂の天孫神像がある」との記録がある。

李鼎元 (りていげん、1800年に来琉)の記録も、
「更に神あり、三面六臂にして黒きこと漆のごとし。
従官曰く、これ国を開きし天孫氏の神なり」である。


そして、最終的には、江戸の作家・大田南畝が
琉球年代記』(1832年)に↓想像図を掲せて以来、
 善興寺「三面六臂の天孫神」は通説となるに至った。
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はたして実際に、天孫神は崇められていたのか?
しかし、この画像を見た語り部はバッサリと言った。
「三面六臂の弁財天とか、天孫神は聞いたことが
 ないですね。これは三宝荒神だと思います」と。

また、こんなことも言った。
「沖縄では荒神をフーチヌカミ(鞴の神)と呼びます。
冊封使の話に〝太陽と月を持つ弁財天〟とありましたが、
赤い太陽と満月を手にする荒神を見たこともあります。
鍛冶にとっても、火と水は必要不可欠ですから…」

さて、弁財天がはたして三宝荒神なのかについて、
どう確認すればよいのかと、つらつらと何日か
考えていたものだったが、遂に同書の別項(27ページ)
に、なんと語り部と同意見のくだりを発見した。
 
曰く、「荒神というは、天孫神のことなり」。
 (以下、内容要約)
 ☆吉月になると、民間では託女(おこで、神女)を
呼んで、「荒神ばらいの祈祷」をする。
☆アマミキヨ、シネりキヨ、あまつかみ、八幡宮、
天神大自在天神を拝し、琵琶を弾き法華経を唱える。

くだんの真喜志氏も、論文に次のように記している。
〜弁財天と荒神が習合しながら、天孫神に祀り上げ
られていったことが推測できると思う。〜

思えば、天神大自在天神こと菅原道真公の子孫と
称する一族が戦前まで東町にいたと、語り部は言って
 いたが、その人々は鍛冶屋(カニマン)だったのか…。

沖縄のカニマンは、決まって三宝荒神を崇めていた。


語り部が那覇のある家で見たことがあるという
「三宝荒神」の掛軸は、このような構図だったらしい。
沖縄図像研究会のHPより拝借した「鍛治神」。
首里生まれの日本画家・柳光観の画「フーチヌ神」)
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こちらも、柳光観の画による鍛治神の掛軸。
柳氏は大正元(1912)年生まれだが、戦前戦後に
 わたって多くの日本画や神像を描いたという。
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こちらは、首里観音堂(臨済宗慈眼院)の三宝荒神。
そのHPには、次のような解説が載っている。
〜仏・法・僧を守護するという神。俗に、不浄を
嫌うことから火の神にあて、カマドの神とされる 〜
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さて、三宝荒神について書いていると、奈良時代
の呪術者・役小角のことが、しきりと思い出された。
葛城山(金剛山)や大峯山中で祈祷した際、艮の方角
から出現したのが、まさにこの三宝荒神だったと伝わる。
いっぽう、六甲山の目神山では弁財天を感得したという。

琉球の鍛冶(カニマン)が三宝荒神を崇めたのは、
琉球王朝以来に限ったことではないと、御先(うさち、
上古)カニマンの存在を信じる私は考えるが、もしや
修験道の開祖・役小角も鉱脈の採鉱者だったのでは?

 というわけで、久々に話は六甲山に戻っていく気配…。




by utoutou | 2018-03-04 20:43 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)