<   2018年 07月 ( 4 )   > この月の画像一覧

六甲山と瀬織津姫 181 ブログ開設5周年の集い

ブログを始めて、早いもので5年が経った。
アマミキヨを知るための沖縄通いは、10年になる。
その年に語り部と知り合い伝承を聞き始めたものの、
膨大な情報量に反して、探求は簡単ではなかった。

ブログを始めて1年後だったか、私は尋ねた。
「(私が)東京に住んでいながら、沖縄のことを調べる
なんてこと自体、何か間違っているかもしれない」
すると、語り部は言った。
「アマミキヨの痕跡は沖縄だけにあるとは限らない。
むしろ、沖縄以外にあると思っていました」

「たとえば、どこに…?」
それには答えず、語り部は言った。
「三峯神社というは、どこにありますか?」
「埼玉県秩父市ですね」
「三峯の“三“という数字が重要かと思います」


そんな会話があったことを、沖縄で思い出した。
そして、27日(金)、沖縄県南城市玉城・天空の茶屋
の庭でお話し会を催した。こちら糸満方面を望む夕景。
a0300530_16232064.jpg





集まってくださった20名の方の前でお話をして歓談も。
最近は六甲山や箕など関西に出かけることが多いが、
アマミキヨの本拠地である玉城に来ると、さすがに
御嶽を巡り始めたころの記憶が、次々と甦ってくる。
a0300530_16252416.jpg




そこで、玉城と久高島が一対の聖地として伝承されて
きたことの意味に思いを馳せながら、お話をした。
「7つの首の蛇」というシリーズに書いたが、
本島側の玉城とその北東に位置する久高島には、古来、
「7つの稲田」と「7つの川」があったとの伝承がある。

玉城は琉球の稲作発祥の地、久高島は五穀発祥の地。
久高島は水源に乏しい土壌のため、稲作には向かない。

久高島の西海岸にある「7つの川」とは、正確には川と
いうより「川泉(かー)」で、この戦後まで、島の人は
そこに湧き出る水を生活用や祭祀のための聖水とした。

古代、その水は、製鉄にも使用されたのではないか…。
というのが、お話し会の最中に思ったことだった。

久高島で古代製鉄が行われたという記録はないが、
久高島を歩くといつも、もしかすると…と感じる。
ススキ、茅、萱などが、島のそこここ生えている。
「7つの川泉」が古代たたら製鉄の原料・褐鉄鉱の生成
 する葦原だったなら、ここは「豊葦原の瑞穂の島」。

それはあながち妄想ではないと思わせる伝承がある。
(お話し会では整理して話せなかったので、以下補足)

☆アマミキヨは久高島にシマグシナー(島軸)を立てた
☆それはスゥバ(茅)でできていた
☆アマミキヨの弟はカニマン(鍛冶屋)
☆カニマンガナシーは御先(うさち、上古代)の神様
☆島では、ススキやスゥバは五穀豊壌を祈る祭具
☆島の南にある小島(フシマ)は「火の島」と呼ばれた
☆イザイホーの祭りで神女たちが使う大扇に描かれて
いた鳳凰は、本来、火の鳥(フェニックス)だった
☆島の中央に「金の稲が生る田んぼ」があった


もしアマミキヨが古代製鉄の神だったとしても、
古代鉄の原料・褐鉄鉱は酸素に弱く腐食するので、
遺物として残らないと、真弓常忠氏など、古代鉄
の研究者はその著書で述べている。


またまた証拠のない捜査が始まるのか…
などと、この夜の満月を見上げて思ったものだが、
語り部が唐突に面白いことを言った。
「古代鉄で作った剣には、3種類あると思います」
a0300530_07595584.jpg




そう言えば、「神代三剣」の話は以前にも聞いた。
神代から伝わる三霊剣であり、支配者のレガリア。
・草薙の剣(くさなぎのけん)
・布都御魂(ふつのみたま)
・天羽々斬(あめのはばきり)

それがアマミキヨとどう関連するかは分からないが、 
古代の覇王は三人いたという意味ではないか。
またそれは、冒頭に書いた三峯神社と関係するか?

などと思ういま、あることに気がついた。
草薙の剣は熱田神宮の御神体として祀られているが、
古代鉄で作られているはずのその霊剣は、
なぜ酸化腐食もしないで現存しているだろうか?
こうしてまた果てしない追跡の旅は続く(笑)。

最後になりましたが、ご来場の皆様、天空の茶屋様、
読者の皆様、そして語り部様、長きにわたるご支援、
心より感謝いたします。
今後ともよろしくお願いいたします。utoutou




by utoutou | 2018-07-29 14:19 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(3)

六甲山と瀬織津姫 180 為那国

為那都比古神社(いなつひこ神社、箕面市石丸)。
平安時代にできた『延喜式神名帳』(927年)に
見える古社「為那都比古神社二座」のこととされる。

鎌倉時代の1259年当時、比売神を祀る神社が
「西天王」と呼ばれ、現在の白島3丁目にあった。

『北摂の歴史』(郷土出版社)によれば、
〜 同社は別殿に分かれていたが、明治期の神社合併
で比売神が合祀されて現在のかたちになった。 〜
 
  『摂津誌』(1735年)の為那都比古神社の条にも、
〜白島村にあり。今天王と称す。萱野十村
    敬畏して祭りを修す〜 と記されている。   


そんな変遷を辿った為那都比古神社 ↓ の現在。
主祭神 為那都比古大神、為那都比売大神
合祀 天照皇大神、大山咋神、木花咲耶姫、
天児屋根命 、火之迦具土神、菅原道眞公
※写真は「トリップアドバイザー」サイトより拝借。
a0300530_12374422.jpg





社号碑に刻まれた由来に、「為那国」の名が見える。
〜当神社は摂津国の古社で、1700 年以前にあった
部族国家「為那国」の中心地で為那国を統括した
為那部族の守護神として祀られたと伝承され(中略)
通称、萱野の大宮として著名である。明治40年、
旧萱野村十ヶ村の産土神十社が当神社に合祀さる
昭和50年10月 為那都比古神社 〜
昭和50年には、「御鎮座地」が白島だったと分かる。
a0300530_13492431.png





「為那国」「部族国家」…。この由緒書には、何やら
邪馬台国や倭国大乱の時代を物語る重要な鍵が
隠されているような気がするのは、私だけだろうか。

また、「為那氏族」とは何者かも気になるところだが、
それはあえて、いまは置き、語り部の視た巨岩の御嶽に
ついて確認しておかなければならない。

巨岩については、くだんの『摂津誌』が記していた。
〜 寺後に巨岩あり、名づけて医王岩という 〜

江戸時代の『摂津名所図会』(1735年)にも記載が。
〜 自然石なり、高さ13丈ばかり、またの名 薬師岩
ともいう(中略)大己貴、少彦名の二神 生ます〜

ともあれ、語り部が視た御嶽の配置はほぼ正解だった。
神社が創祀される前、為那部の一族は巨岩の御嶽
を祭祀場として、その祖神を崇めていたのだったか。

始祖の神像は、次の2通りが考えられそうだ。

(1)語り部が視た「いなべ族」の移動先・三重県員弁郡
(いなべぐん)猪名部神社の主祭神で「やはり物部氏
 にも書いた、伊香我色男命(いかがしこおのみこと)。

(2)『先代旧事本紀』の国造本紀に見える、
「為那部等の祖・天津赤占(あまつあかうら)」。
いずれにしても物部氏、饒速日命の裔もしくは供奉衆だ。

さて、後回しになった問題。為那部族が統一支配した
らしい為那国とは、いったいどこにあったクニなのか。


こちらは、故鳥越憲三郎氏(大阪教育大学教授)編纂
による報告書『勝部遺跡』(豊中市教育委員会)に掲載
の「為那国の遺跡」と題した地図だが、つまり氏はこの
範囲が為那国であるという説に立っている。東の千里
丘陵(大阪府)と西の猪名川(兵庫県)の間の地域だ。
a0300530_07564444.png




これまで、
為那都比古神社、箕面川、猪名川など、箕面の各所には、
 この国の古代秘史が埋もれているかと注目してきたが、
改めてそれらと大和王権との関連を思わずにいられない。

地図下部の「神崎」。おそらくここは3〜5世紀
 ころの海岸線であり、神功皇后ゆかりの港湾でもある。

『摂津国風土記』逸文に、次の記述があった。(要約)
☆神功皇后が新羅征伐に出発するにあたり、神前松浦
(現・尼崎の神崎か豊中)で戦勝を祈願した。
☆すると猪名川上流・能勢の美奴売(みぬめ)山
(現・豊能郡三草山)の杉で船を造れば戦勝するに
違いないという神託があった。
☆戦勝した帰途、岬の沖で船が動かなくなったので、
美奴売神を祀った。


この女神こそは、水神・弥都波能売神(瀬織津姫)。
祀った神社は↓現在の敏馬神社(神戸市灘区)である。
今年の1月に参拝したが、そこはもう六甲山麓。
a0300530_13202606.jpg



地図に再び目を転じると、神崎と箕面とは千里川で
繋がっており、上流の丘陵(箕面市)から銅鐸が出た。
あの医王岩に至近の場所から。その名は如意谷という。


^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
【お話し会のお知らせ】
7/25は、当ブログ開設5周年にあたります。
日頃のご愛顧に感謝して、語り部さんとブログ主
である私・utoutouによるお話し会を催します。
参加ご希望の方はコメント欄(仮名可)でお申込みを。
□日時 7/27(金)18:00〜20:00
□場所 沖縄県南城市玉城・天空の茶屋
□20名さま限定
□2500円(お食事・フリードリンク付き)
よろしくお願いいたします。



by utoutou | 2018-07-23 19:40 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(13)

六甲山と瀬織津姫 179 為那都比古神社

語り部が電話で情報を送ってくれるとき、その脳裏
にはVR(バーチャルリアリティー)が展開している。
神託としてのメッセージは想念として届くと同時に、
彼の脳内で、三次元の世界に具体化されるのだ
ろうと、私はいつも勝手に想像している。

ともかく、西江寺(せいこうじ)を出ようとすると、
沖縄にいる語り部から一本の電話が来た。
「箕面川より東の方向に巨岩の御獄がありませんか?」

「知りません」とは、こういうときは決して言わない。
「ちょっとお待ちください。確認します」と。
正直、巨岩か巨石があるかどうかは知らなかった。

が、箕面を訪れたことのない語り部に比べれば、
いま箕面にいる私のほうが、僅かでも何かを知って
いると、思いたい(笑)。

「知らない」のに妙な理屈だと思いつつ、いったん
電話を切り、スマホで西江寺HPの周辺地図を開く。
(※ ↓ 掲載の地図はそのHPから拝借)


図星だった。地図の下部分、左の赤丸が西江寺で、
目線を東へと動かしていくと、「医王岩」という
巨岩が描かれているではないか。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
a0300530_12193102.jpg





さっそく調べると高さ25mの巨岩=御嶽があった。
以下、文と写真は「ぷらっと 箕面さんぽ」から拝借。


【医王岩】
〜 白島の医王山から北へ300mほど上がったところ
にそびえる、高さ30mの3層に重なった巨岩です。地元
では、薬師寺岩とも呼ばれ、土地や生産を司る農耕神、
大己貴・少名彦の2神が生まれた地とも言われています。
人が立っている姿にも見え、頂きは人の頭に似て、その
不思議な姿は古代より信仰の対象とされています。〜
a0300530_12270539.png





医王岩の住所は、箕面市白島。西江寺から数㎞の東にある。
しかし、そのとき既に東京に戻る時間が迫っていた。

滝道を下りきり箕面駅ロータリーに着いたところで、
きょうはこれまで、と、恨めしげに地図を見上げた。
が、驚いたことに、なんと、
左の西江寺(赤丸)から東の方向に神社と寺もある。
(※赤丸はいずれも当方で加工しました)
a0300530_12491016.jpg





それは、為那都比古神社(いなつひこじんじゃ)。
何分か前に語り部と話した「いな」の付く神の社だ。
かつて栄え、箕面の地も含まれると言われる、
多田銀銅山のあった猪名川町(兵庫県)と同じ「いな」。
そこには猪名川が流れ、下流域で箕面川が合流する。

そして語り部が視たという、猪名部神社(三重県)も、
住所の員弁郡(いなべぐん)も、いずれも「いな」だ。

ここ箕面に祀られていた「いな」の付く為那都比古とは、
いったいどのような神なのか…。医王岩との関係は?
あるいはまた、物部氏との関係は? 

物部氏であれば、
そこに我々の推理による沖縄から北上したセーナナー
や、アマミキョ族がいた痕跡は、はたしてあるのか?

為那都比古神社に参る時間はなかったが、その
「いな」族は、やがてどの時空へ辿り着くのだろうか?



by utoutou | 2018-07-14 17:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 178 やはり物部氏か

話は「箕面弁財天」より続く。瀧安寺を出て
滝道を歩いていると、語り部からの電話が鳴った。

「その箕面川は、何という川と合流しますか?」
「確か、伊丹あたりで猪名川に合流するかと…」
「その猪名川は、イナべという一族と関係ありますか?」
そんな会話を交わした。

またまた難しいことを…と思いつつ、私は言った。
「猪名川と言えば、兵庫県に猪名川町がありますね。
そこに昔、多田銀銅山というのがあったらしいです」
語り部は「なるほど」と呟いたが、話を変えた。
「イナべ神社というのも、ありますか?」
「どこにですか?」
「三重県だと思います」
「三重県…!?」

電話を切って猪名部神社(三重県員弁郡)を調べる。
主祭神・伊香我色男命(いかがしこおのみこと)は、
「員弁(いなべ)の始祖」でもあると由緒は記している。
伊香我色男命とは饒速日尊の六世孫。物部氏である。

「箕(み)の面は籠目(六芒星)に編まれていた」
「それが箕面の地名の由来では」という語り部の見立て
が思い出される。やはり箕面には物部氏がいたのか。

「猪名川町、箕面、員弁が、物部氏で繋がっていた?」
「はい、可能性は少なからずあると思います」

そんなこんなの道草をしながら辿り着いたのは、
箕面山・聖天宮西江寺(しょうてんぐうせいこうじ)。
お寺なのに鳥居がある。神仏混淆時代の名残りのようだ。
a0300530_06263559.jpg





聖天宮西江寺【略縁起】(境内の説明板を要約)
☆斉明天皇4(西暦六五八)年、役行者小角が開基した。
☆箕面大滝で苦行した行者に大聖歓喜天が出現した。 
☆そこで、この地を日本最初の霊場とした。
☆摂津国豊島郡片手村は、これより箕面村と称した。
☆聖武天皇の勅願で、摂津国神宮寺と称した。
☆明治時代の神仏分離により現在の山号に改称した。
a0300530_06290363.jpg





本堂・大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)。
伝承によれば、役行者が箕面大滝で出会った龍樹菩薩
とは、本邦で初めて出現した歓喜天のことで、いまも
西江寺の境内に残る対談石が、そのときの「舞台」。
龍樹菩薩は役行者に言ったという。「この山は
自分の領地だが、お前に与えるから伽藍を建てよ」と。
a0300530_06312473.jpg





本堂前に掛かる提灯には、大根と巾着が描かれていた。
大根はクロスしており、巾着は中央を紐で絞った絵柄。
拝殿の壁や線香の炉にも、大根と巾着の装飾がある。
歓喜天は、象頭人身の男女が抱き合った姿をしている。
つまりは、大根と巾着が暗に物語るように、陰陽二神か。
歓喜天の本地は、女神を身に隠した男神であるらしい。
そのためか、歓喜天と十一面観音の真言が掲げてあった。
a0300530_08203152.jpg





初参拝のため馴染みの薄かった歓喜天も、実は男女一対神
と捉えると、途端に神像のイメージが描きやすくなった。
例えば、瀬織津姫と天照大神、瀬織津姫と猿田彦大神、
またはヒコとヒメ、イザナギとイザナミ、琉球では、
イキガ(男)とイナグ(女)、ウミキ(王)とウミナイ(妃)。
この箕面山の地主神とその妃神ということなのだろう。
こちら弁財天堂の左奥には、白龍歓喜天の小祠があった。
a0300530_09542821.jpg




というわけで、
役行者は地主神を祀る先住の民と融合したようだが、
その一族は、はたして「イナベ」と関係があるのか…。

語り部の透視が冴えていたこの日、再び電話が鳴った。
「箕面川より東の方向に、巨岩の御獄がありませんか?」


by utoutou | 2018-07-03 18:13 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)