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六甲山と瀬織津姫 185 龍神は北上した

大己貴命(おおなむちのみこと)の神格については、
「六甲山と瀬織津姫 130 角のある人の世」で
書いたことも忘れて路頭に迷い、筆が止まっていた。


上古、この箕面を中心地としたらしい為那国に、
 まず先着した渡来の民がアマミキヨ族だったなら、
↓ 為那都比古神社の旧社地300mの北にある御嶽
・医王岩で崇めた神ははたして大己貴命だったろうか? 
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という疑いが、確認する術もなくわだかまっていた。
アナゴノシー・アナゴノファーと呼ばれた久高島の
始祖夫婦(兄妹)が、「天地の大神さま(スサノオ)」
の末裔だろうという語り部の話を前回書いたのだったが、
そこに大己貴命はどう関係し、またどういう神格なのか?

何日かモヤモヤしていたが、再読して少し覚醒した。
ヤマトで語られる大己貴命は、琉球古神道で語られる
君真物(きんまむん)。琉球王朝の祭神でもあった。


うっかり忘れていたその神名は、記事中で
 引用した五穀発祥伝説(久高島由来記)にあった。
〜アナゴノシー・アナゴノファーの夫婦(兄妹)は、
東海岸の ↓ 伊敷浜で波間に漂う白い壺を見た。禊の後、
それを拾うと、中に7種の穀物の種が入っていた。
中森嶽に蒔いたところ、うまく育ち、君真物も出現した 〜
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↓中森嶽は、中の御嶽(中森の御嶽)とも呼ばれる。
久高島の龍宮と密かに伝わる洞穴の最奥部にあたる。
よって、そこに坐す主神・君真物とは龍神なのである。
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語り部は言った。
「大己貴神と聞いて視えるのは、やはり龍神です。
三輪山の巳さん(龍神)・大物主神とも同神です」
※大物主神と君真物については、こちらにも記事が。


大物主と君真物、確かにどちらも物(むん)を含む。
沖縄で物とは霊力、真物(まーむん)とは龍神の霊力。
「物」の一字はまた、物部の「物」にも通じる。
以前、語り部が視た「籠目に編んだ箕(農具)」は、
この地に渡来したアマミキヨ族が、磐船で飛来した
ニギハヤヒ率いる物部だと、暗示していたのだろう。

確かに、為那都比古命と同音を含む猪名部氏は、
物部系とも、新羅からの帰化人とも言われている。
前者が後者と通婚しても、母系なら祖神は変わらない。
医王岩の御嶽で、一族が大己貴神を祀るのはごく自然。
やはり、龍神を崇める為那の一族は列島を北上したか…。

物部の祖神はニギハヤヒだろうと思いがちだが、
因幡国の伊福部氏など、ニギハヤヒ系図の最上位に
大己貴命を記した所伝を遺す一族も存在するという。


「ところで…」と、語り部は言った。
「猪名川の源流に、宇迦之御魂(うかのみたま)が
祀られていた痕跡は、ありませんか?」
「7つの首の蛇ですね、琉球から北上したセーナナー
「はい、琉球の球とはその御魂だったと思います」
「九頭龍大神なら源流の猪名川町に祀られていました」

為那都比古神社に参るため日帰りで箕面に行った日、
まず、兵庫県猪名川町の戸隠神社へ向かった。
あまりの遠さに諦め、Uターンして来たのだったが。
いまは猪名川町の国指定重要文化財となっている。
戸隠神社は、古来、九頭龍大神と呼ばれていた。






by utoutou | 2018-08-31 14:32 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 184 大己貴命(おおなむちのみこと)

箕面山(為奈山)山麓に明治時代から鎮座する
為那都比古神社(箕面市石丸)には東西に鳥居がある。

東の鳥居に入る際に目を転じると、長く続く玉垣。
鳥居横の「式内社」と冠した社号碑とあいまって、
広大な境内は、古来の格式と遷移までの歴史を偲ばせる。
さすが神功皇后の如意珠伝説が残る土地柄だと思いつつ、
あのときはまだ伝説の意味までは考えが及ばなかったが。
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境内に続く鎮守の森がどれほど広大であったかは、
『式内社調査報告第5巻』('77年刊行)が記している。
〜【境内地】四百五十一坪。〜(※1490㎡←筆者注)
これで驚いてはいられない。続いての記述では…。

〜明治初年の大阪府豊島郡萱野村白島萱野郷式内社
為那都比古神社「境内実測図」二枚あり。(中略)
計三千六百二十三坪五合四勺とある。〜
換算すると、約11977㎡。現在の十倍近くか。
「イナ国の中央祭祀場だった」とする説もうなずける。


中門から拝殿を望む。境内右に由緒を刻した石碑が。
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逆に、拝殿前から中門を見ると、このような景観。
猛暑日の午後3時、参拝客は誰ひとり現れなかった。
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さて、こちらが、
為那都比古神社に合祀された村社一覧を刻した社記碑。
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そこには、こんな記述がある。
〜国の指導により明治四十年に旧萱野村内に御鎮座の
 次の神社が、この為那都比古神社に合祀されました 〜
 列記された十の神社にヒコとヒメの神社も含まれる。

☆大宮神社(為那都比売大神)白島(※地名)
☆為那神社(猪名津彦大神)稲(※地名)

うち、ヒメを祀る大宮神社が「大婦天王社」と呼ばれた
旧社であり、その300m北に立つ巨岩・医王岩が古来
の御嶽であったことは既に書いたが、祀られていた神は、
『摂津名所図会』によれば、「大己貴命と少彦名神」。
「この二神は医道の祖也」とも。ただし、その祭祀は、
大婦天王社が本尊・薬師如来の大宮寺だった頃の名残り。
本来の御嶽には、もっと原初的な神が祀られていたのでは?
※写真は「ふらっと 箕面さんぽ」より拝借
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 上古の時代、この地の首長で祭主だったと思われる
 為那津比売が大己貴命と少彦名神を崇めていたとして
   も、あくまでも一族の祖神の祀りだったはずである。 

   では、大己貴命とは琉球から渡来した神なのか。 
  そのヒントを、実は語り部は以前から呟いていた。

曰く、
 「猪名川の両岸に広がってこの地に住んだ一族は、
  久高島のアナゴノシー・アナゴノファーと関係がある」
そしてまた、こうも言った。
「吉備に祀られる金山彦神(かなやまひこのかみ)や、
 近江に祀られる天一箇目神(あめのひとつめのかみ)
 とも同神と思える神さまが、ここにも祀られている」

   ヒントを頼りに答えを求めること数日、なんと
  行き着いたのは、自身の過去ログ「角のある人の世」。

結論を言えば、琉球王国時代の地誌に見える、
 阿名呉之子(アナゴノシー)と阿名呉之姥(ファー)
のアナゴとは、「穴子」であり「穴師」であり、
久高島三元家のひとつ・久高家の始祖であり、
古代天孫氏王朝の王と伝承される天地の大神様
(天王ガナシー、スサノオ)の子・猿田彦神と妃神。

その神徳は穴師の神であり、金穴(かなな)の神。
すなわち、大己貴命とは大穴持神ではないのか?
ここは古来、萱野鄕と呼ばれる産鉄地だったはずだ。
続く…。



by utoutou | 2018-08-23 21:56 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 183 箕面の神功皇后伝説

阿比太神社(箕面市桜ヶ丘)↓から
15分の徒歩の後、阪急電車で一駅離れた箕面駅へ。
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ある方に絶版の御著書を分けていただく約束だ。
そこに、「箕面の神功皇后伝説」が記されている由。
いわゆる三韓討征の後、凱旋した神功皇后は、
箕面の如意谷に宝珠を埋めたとの伝説があったと。


待ち合わせした箕面駅前で、以前も見た地図を見る。
(赤丸は私の加工だが)、左上は箕面山・瀧安寺。
右下は為那都比古神社。その間の赤丸が如意谷あたり。
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待ち合わせは『箕面の説話 道教と北摂』('94年刊)
の著者・飯島正明氏。箕面市史学会世話人であられる。

早速、駅前のカフェでお話を伺うが、残念ながら
「箕面神功皇后伝説」の原典・『豊島郷土史論』は、
池田市立図書館にあったが、現在は行方不明とか。
著者の島田福雄氏は他界され、確認しようがないと。

「ただ、確かにその本に箕面の如意谷に神功皇后が
如意珠を埋めたという伝説はあった」と、飯島さん。
そして、自署『箕面の説話』に次のように記した。
(要約)
☆神功皇后は新羅に勝利、多くの戦利品を得て帰った。
☆如意珠と各種の宝石、甲・弓・剣なども持ち帰った。
☆そのうち、武器は武庫山(六甲)に、甲は甲山に、
如意珠は箕面の山内に埋めた。
☆このことを知った者が如意珠を埋めた場所を掘ると、
弁財天女が白龍に乗って降臨し、白い雲を呼び、
西南に向かって飛び去った。
☆いまの如意谷の地名は、埋めた如意珠に由来する。

さらに、私としては残念なことだったが、
著書の題名に、『〜道教と北摂』とあるように、
飯島さんは道教という側面から箕面の歴史に
アプローチされ、「神功皇后の如意宝珠伝承」を
 渡来の霊山信仰が作り出したものと捉えておられた。

 私が「神功皇后の如意玉伝説」に期待したのは、
「その珠は琉球のぬぶし玉」では? という推理だった
 が、氏は琉球との関係は聞いたことがないと言った。


暑いなか、近くの京都資料館へも案内してくださり、
もうひとつの目的である「如意谷銅鐸」も見学したが、
それ以上、神功皇后伝説の背景を探るのは難しかった。
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東京〜箕面、灼熱の日帰り旅は空振りだったか…と
思いつつ、参った為那都比古神社(箕面市石丸)。
その境内で、あることにふと気がついた。
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境内には、少し前に紹介した由緒書きの石碑が。
〜 御祭神 為那都比古大神 為那都比売大神 〜
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そして、その隣には、来て、こうして
見なければ分からなかった、もうひとつの石碑。
そこには、為那都比古大神と一対神ではない、
為那都比売大神の名が刻まれていたのだった。

〜大宮神社 (為那都比売大神)白島 〜と。
冒頭、次の説明が刻されている。
〜国の指導により明治四十年に旧萱野村内に御鎮座
の次の神社が、この為那都比古に合祀されました〜
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前回のブログでも拝借した『実在したイナ王国』
(山内玲子著)に載る略図の意味に、初めて気づく。
御嶽の医王岩、その南に「⛩旧社跡地」とある。
その別名は大宮寺(神社)、祭神は為那都比売大神。
つまり、この地の地主神は為那都比売大神だった?
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為那都比古大神として祀られる
「イナ国の為那都比古」とは、由緒に「1700年前」
と記されることや「埋納銅鐸」からも分かるが、
半島か大陸からの渡来人であることは確かだ。

その為那都「彦」は、上古からこの地を支配した
先着渡来民の「姫」を娶ったのではなかったか。
母系制の集団に入り婿となるのが、弥生初期の聖婚。

ならばその集団は、神功皇后の出自と関係がある?
世にあまり知られなかった神功皇后伝説は、末裔が
かろうじて遺したものとすれば、一族は滅んだか…。

by utoutou | 2018-08-14 20:48 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)

六甲山と瀬織津姫 182 再び箕面へ

沖縄から東京に戻った数日後、日帰りで箕面へ。
いくつかの興味深い伝承や考察に出会ってから、
是非また訪れたいとそのチャンスを待っていた。

その伝承とは、「三韓遠征から帰った神功皇后は、
箕面の山中(如意谷)に如意珠を埋めた」というもの。

そして考察とは、弥生時代中期に箕面の東に位置する
「千里丘陵から、西は保久良神社(神戸市東灘区)までの
広範囲にわたって、イナ王国があった」というもの。

どちらも私にとっては初耳だったが、もしそうならば、
箕面の地を抜きにしては六甲山は語れないことになり、
当シリーズのタイトルも「イナ王国と瀬織津姫」と改め
なくてはならない可能性があるわけで、事は重大だ。


週末の箕面は最高気温が37,1度という猛暑日。
まずは阿比太(あびた)神社(大阪府箕面市桜ヶ丘)へ。
お昼どき、木陰のある鳥居の下では工事関係の方たちが
休憩しておられたので、写真は撮らなかった。
参道には木陰があったものの、拝殿前の聖域は灼熱…。
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阿比太神社。
 延喜式神名帳(925年)に見える式内社。
由緒に曰く、祭神は素戔嗚尊。応神天皇2年の奉祀。
語り部は、「この地が真実の蘇民将来の発祥地だろう」
と言うが、この件については改めて考えることにする。
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次に訪れたのは、箕面市郷土資料館(箕面市箕面)。
博物館ではない。駅近のショッビングセンターの地下に
資料館があり、さりげなく銅鐸が展示されていた。
聞けば、レプリカではなく正真正銘の本物ということだ。
如意谷銅鐸は高さは86㎝、3世紀のものとされている。
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箕面市如意谷で散歩中の市民によって銅鐸が発見
されたのは、昭和41(1966)年の元旦のことという。
団地造成工事中にブルドーザーが掘り起こした銅鐸
は、すんでのところで全壊を免れて考古資料となった。
如意谷銅鐸は、人為的に横向きに埋納されていた。
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この日、最後に訪れたのは、
為那都比古(いなつひこ)神社(箕面市石丸)。
祭神は為那都比古大神、為那都比売大神。

箕面駅からタクシーで東へ10分、徒歩だと30分以上。
北千里と箕面の中間に位置。つまり千里と箕面は地続き。
また、為那都比古神社の北北西へ徒歩10分で如意谷。
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この為那都比古神社、その旧社地の大宮寺、
そして、現在も巨石として有名な医王岩、そして
銅鐸が出土した如意谷の位置関係はこのようになる。
※山内玲子著『実在したイナ王国』より拝借
(為奈山とは現在の箕面山のことを指しているようだ)
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箕面の医王岩を中心とした一帯を、山内氏は、
イナ王国の祭祀場と記したが、話は冒頭の伝承に戻り…。

ではなぜ、この地に如意珠を埋めたという神功皇后の
伝承は生まれたのか…。いま、その謎に強く引かれる。
「まさにそれが分かれば、アマミキヨの足跡は紐解けます」
語り部もそう言うのである。





























by utoutou | 2018-08-09 21:32 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)