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六甲山と瀬織津姫 139 聖徳太子〈その9〉

太子と共に太子廟に眠る膳妃(かしわでのきさき)
は、膳傾子(かしわでのかたぶこ)という豪族の姫。

4人いたという聖徳太子の妃のなかで、膳妃こと
膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)だけが、太子と
合祀されたのは、寵愛を得たという理由だけなのか?
また逝去の時期が近かったという理由だけなのか?
それを探るために、叡福寺の印象を振り返ってみる。


叡福寺南大門。
聖徳廟の扁額が掛かるこの門に立ったときから、
磯長墓へのアプローチが始まっているように思えた。
叡福寺は622年、太子廟を守護する目的で推古天皇が
建立したというが、その123年後の745年、聖武天皇が
伽藍を建立したと伝わる。123年後とは何やらゴロがよい。
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境内に進むと、左手に金堂と多宝塔が建っている。
「三骨一廟」の太子廟に対応するように、お堂には
如意輪観世音菩薩、愛染明王、不動明王と三体の仏像。
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「三骨一廟」ゆえか、太子廟では「三」が妙に気になる。
    屋根が「三重」。香炉紋が琉球王朝と同じ「左三つ巴」。   
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三つ巴とは一般に、三者が入り乱れての対立を指す。
または古代には、鼎(かなえ、三つ足の祭器)を指す
   場合もあったとか。それは王位の象徴でもあるという。  
 
 そこから推理するに、太子廟の「三骨一廟」とは、
「三豪族の合葬」を意味するのではないかと思った。
皇后・太子・妃は「三氏」の象徴的存在ではないのかと。
    
 語り部も、「再生を願っての葬り方だと思う」と言う。
 逆に考えれば「三氏」は封印されたということになるが、
では、その三氏とは、いったいどのような古族なのか…?


ところで、叡福寺の前日は奈良の「斑鳩の里」に
行き、法隆寺や中宮寺(↓)に参ったが、斑鳩には膳妃の
数代前の先祖には膳斑鳩(かしわでのいかるが)がいた。
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若かりし日の太子は、膳妃と斑鳩で出会ったという。
つまり膳姫は、斑鳩の里を代々支配する首長の姫だった。
その地に太子の斑鳩宮が、またやがて法隆寺が建てられた。
膳氏は、もしかすると何やら強大な家系なのである。

斑鳩は、海外使節の着く難波津と、当時の政治文化
の中心だった飛鳥のちょうど中間地点にあたる。
大和川の水運を考えても、斑鳩に拠点を置くことは、
太子が力を注いだ隋との外交政策にとっても有利だった。

いっぽう、斑鳩の地名はイカル(鳥)にちなむらしい。
別名は「三光鳥」、「日〜月〜星」と鳴くのだという。
日月星の三光を崇めるのは、渡来海人族の信仰だった。

そんな話をすると、語り部は意外なことを言った。
「膳氏と聞くと、埴札(はにふだ)が見えます」

埴札とは、『先代旧事本紀大成経』の編著のために
太子が集めた海人族六家の家伝が記されていた赤土の札。
埴輪と同じ材質で作った、古代の「記録板」である。

埴輪を作る赤土は、赤土山古墳がある大和の和邇下、
現在の天理市櫟本あたりで採取されことは、近くに
赤土山古墳があることでも分かるが、そこに膳氏も蟠踞
していたならば、当地の和邇氏と同族だったことになる。

膳妃とは、大和の大地主の姫だった。そして、
大和川の航行安全を司る瀬織津姫だったかもしれない。



# by utoutou | 2017-10-21 10:42 | 瀬織津姫 | Trackback | Comments(0)